中野坂上/人類のお金に関する不幸/そのまんま東/権力はいつ権威を失ったか

Posted at 07/01/23

昨日。いろいろやっていたが、昼過ぎに友人から電話があって新宿で会うことに。一通りいろいろな話をして分かれようとしたが急遽友人の娘とも会うことになって中野坂上で少し話をする。中野坂上には久しぶりに行ったが、高層ビルがぼんぼん建っていて何だかまるで新宿だ。新宿がのっしのっしと進出して来たんじゃないかという印象を受けた。

『金持ち父さん』シリーズは読み出したら実に面白く、新宿の紀伊国屋でまた読んでいないのを買った。『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント』(筑摩書房、2001)。まだ最新作の『金持ち父さんの起業する前に読む本』を読み終えていないのでそちらから先に読もうと思うが、シリーズ第一作からもう一度順番に読み直してみるとまた得るところがあるかもしれない。「人類のお金に関する能力を高める」という彼の究極の理想とも言うべき物について、それが価値あるものなのかどうかということが最初は全然ぴんと来なかったが、読んでいるうちにそれは全くその通りだなあということが理解されてくる。その過程が今までにない感じで面白い。

金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント

筑摩書房

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金持ち父さんの起業する前に読む本 ビッグビジネスで成功するための10のレッスン

筑摩書房

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そういう意味でいうと、彼は「お金に関する不幸を人類から取り除くこと」を説いて回る宣教師のようなものだ。使命の大きさが製品を決める、と「金持ち父さん」はいうが、そのミッションが本とゲームという形で結実しているわけで、なるほどなあと思う。このあたり、KJ法の川喜田二郎がネパールで行った技術援助の話を思い出して非常に興味深かった。川喜田はネパールのある地域で調査をし技術援助を行うときにさまざまな調査から「運搬」の問題こそが人々の暮らしを困難にしている原因だという結論にいたり、それを解決するために簡便な、上から下へケーブル輸送できる装置を計画し、実現させる。技術援助というと目に見える大規模なものを援助する側も援助される側も望むが、現実の必要に立脚したものは必ずしもそういうものではない。キヨサキのミッションも実際の製品として生み出されたものはゲームだったから、何だかちゃちいとやはり思ってしまう。しかし実際はその一見ちゃちいものこそがそのミッションに最も適ったものだった、ということなのだろう。

KJ法―渾沌をして語らしめる

中央公論社

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そのまんま東氏が宮崎県知事に当選したが、その市町村別の得票数を見てみると、市部ではすべて東氏がトップ、郡部でも川村氏の出身地と北部、山間部をのぞいて東氏が勝っているところが多い。そういうところからも、これは浮動票が動いた結果ではなく、自民党や民主党の支持者で東氏に投票した人が大変多かったということが分かる。地方の首長は中央とのパイプを生かした官僚出身者で、というのがひとつの自民党のビジネスモデル、もとい政治モデルであるわけだが、その地方と中央の官庁の官庁的な癒着構造が生じることによる血の巡りの悪さとでもいうか、そういうものに対して地方が耐え切れなくなる、という現象がそこここで起こっているのだろうと思う。本来官僚だからだめだとかフレッシュだからいいというようなことはないはずで、個人の資質によるものであるはずだが、やはりそうした「構造」の問題からなかなかのがれることは難しいのだろう。その構造に反することをやるのはある種の「裏切り」となり、フレッシュな人材にとってよりも改革というものがずっとやりにくいという状況もあるのかもしれないと思う。もちろんまだ東氏に何ができるのかは未知数だが、地域が明るくなるような施策を実施できるように努力していただきたいと思う。

昨日は『華麗なる一族』に関連して「権力が権力であった時代への郷愁」があるのではないかということを書いたが、では何をきっかけに権力や権威というものが失われていったのか、ということを考えてみると、立花隆の田中金脈問題追及からなのかな、と思った。その威勢は衰えつつあったとはいえ日の出の勢いを示していた50代の若き首相の構造的な金銭スキャンダルを白日のものに晒す記事は、もちろん相当な度胸と覚悟が筆者にも出版社にも必要だっただろうし、その影響も非常に甚大だったと思う。ロッキード事件などでも背後にアメリカの影のようなものは感じられるが、ジャーナリズムが権力の偶像を叩き落したという点では画期的な事件であったと思う。実際、田中の政治的な(つまり政治の世界での)影響力は彼が病に倒れるまで維持し続けられた。国民の間の政治不信はもちろんその期間にどんどん高まってはいったが、その種の煽りをマスコミが続けられたのも立花の仕事があればこそだっただろう。逆にわれわれの世代には政治とは汚いものというイメージが定着しすぎて逆にまずかったという気もする。

田中角栄研究―全記録 (上)

講談社

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だからこのあたりは痛し痒しで、やはりレーガンのような『偉大な指導者』(多くの人が偉大だと認めえた)が出てこないと政治に対する本来の意味での信頼が回復することはないのだろうが、マスコミ的な要因から言っても政治家の人物像の問題からいっても日本ではなかなかそれは難しい気がする。自分の国の政治を信頼できない国民はやはり不幸だと思うのだが、ある意味日本人は好んで不幸になりたがるところがあるし。

ジャーナリズムは権力を批判する権力であるから、それがあまりに強すぎるのもやはり問題で、もっとバランスを取るためにはどうしたらいいのかということはもっと考えられていいことだと思う。もちろんそれはジャーナリズムが権力を批判することを抑制しなければいけないといった方法ではなく、既存の三権がもっと国民とコミュニケートしていくという方法でなければならない。

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