村上春樹訳『グレート・ギャツビー』は魅力的だ

Posted at 06/11/29

昨日帰郷。特急の中では村上春樹訳『グレート・ギャツビー』を読み進めた。一人一人の造形が非常にはっきりしていて、人物の実在感がある。『海辺のカフカ』に登場する人たちよりもかなり実在感があるといってもいいが、それはつまりフィッツジェラルドと村上の人物造形に関する力量の差と言うことになるのかもしれない。村上作品は基本的にストーリが面白く、先を読みたい作品なのだが、『ギャツビー』は情景描写や人物造形が非常に魅力的な、そういう意味では『ボヴァリー夫人』以来の正統的な小説作法をきっちり踏襲した作品だと言うことができるだろう。もちろんそれをヴィヴィッドに描き出す村上の翻訳の冴えはすばらしい。

グレート・ギャツビー

中央公論新社

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また、徹底した情景描写が続く場面では、『ボヴァリー夫人』や『感情教育』では申し訳ないがだんだん飽きてきてしまう、というようなところも上手く訳されている。そのあたりは、村上が言うようにフローベールの翻訳の「訳の賞味期限が切れかけている」と言うことかもしれないので一概には言えないのだが。

しかし情景描写の巧みさは、保坂和志の『文章教室』で読んだ鉄則がそのまま実現されている感じで、確かにこのように描写すれば魅力的な作品になるのだろうなあと言うそのままがそこにあるという感じだ。これはフィッツジェラルドの思いもかけないような視点、それでいてそんなにトリッキーとは感じさせない、ナチュラルな物の見方が村上の訳出力を持って日本語に送り届けられているという感じである。

村上色を強く感じたのは、以下のセンテンスだった。

「しかしなんといっても、彼女を憎からず思っている男にとってまことに忘れがたいのは、その声にうかがえる心の高ぶりだった。歌うがごとき甘い無理強い、「ねえ、聴いて」という囁き、彼女がつい先刻この上なく愉しい何かを終えたばかりなのだというしるし、そしてまた別の愉しくわくわくするものが、これから一時間ばかりは近くに控えているはずだという示唆。」

この体言止めの連続の、その体言の選び方が実に村上らしく、フィッツジェラルドの原文との距離を慎重に測っているような感じが非常に読む気をそそる。やはりフィッツジェラルドがどう書いたか、だけでなく村上がそれをどう表現したか、ということも強く関心の的になっていて、つまりは『グレート・ギャツビー』という作品でフィッツジェラルドと村上がどのようにコラボレートしたか、というジャズ的な関心がこの本を読むときの大きな楽しみなのだなと思ったのだ。

訳者は多くの場合黒子だし、黒子であることに意味があるということは事実なのだが、この文章ははっきり言ってそうではないし、それは村上自身が言明している。「ぼくはこれまで翻訳するにあたって、自分が小説家であるということは極力意識しないように心がけてきた。」けれども、「ただ、この『グレート・ギャツビー』に限って言えば、僕は小説家であることのメリットを可能な限り活用してみようと、最初から心を決めていた。」というのである。そして、今まで読んだ部分に関しては、その試みは全く成功に終わっているといってよいと思う。翻訳というものを新たな次元に押し上げた、という点では内藤濯訳の『星の王子さま』や瀬田貞二訳の『ナルニア』シリーズに――例が児童文学ばかりだが――に匹敵するものだと思う。

しかしフィッツジェラルドというのも特異な作家だなという気がする。その特異性についてはそのうちまた書きたいと思うが。

***

昨日は忙しくなるはずだったのだが、いろいろと予定が変更になっていて思ったより忙しくなかった。しかし今週の木曜以降が予定が忙しくなりそうで、ちょっときつい時期があるかもしれない。やることはたくさん在るのだが、スケジュールを上手く調整して充実した仕事をして行かなければと思う。


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