「愚行というやさしい妖精」が踊る/小説に対する近親憎悪

Posted at 06/05/27

昨日帰京。昨日は昼食のときに仕事のことで議論して久しぶりに激昂してしまい、相当疲れたのだが、夜の仕事を終えて最終の特急で上京するさなか、とにかくクンデラ『カーテン』は読了した。

夜は朝生で米軍再編問題をやっていたがどうも見る気にならず、かといって早く寝付けなかったので深夜番組をいろいろ見ていたが、結構どれも面白かった。少し前の深夜番組というと下手な芸人とエロ産業方面のどうにもならない救い難い番組が多かったが、昨日見てたのは爆笑問題や劇団ひとりがでていたり、所ジョージが出てたりして、結構マニアックだったりはするが、それなりに面白いものを作っている感じがした。でもゴールデンに出てきそうな感じの番組はなかった。って言うかそのほうが(深夜番組として)健全だと思うけれども。

朝はぐずぐずしつつ遅く起き出し、作品に手を入れたりいろいろ考えたりしてるうちに友人から電話がかかってきて長電話になったり。雨が降っていてあんまり積極的に外出する感じでもなく、変に疲れが残っていてまた少し寝たり、という感じでもう夕方になってしまった。

22年前のトマス・クックのタイムテーブル(リンクを張ってみて分かったが今じゃ『地球の歩き方』が出してるんだね)を出してきて22年前にヨーロッパを旅行したときのコースをたどってみる。明らかに変なコースを行ってるのが我ながら可笑しい。チューリッヒから入って次に行ってるのがアウグスブルクで、ミュンヘンは素通り。次はニュルンベルク、次はケルン、次はもうパリ。ドイツの3都市の選び方が謎だ。旅行中につけた記録を見て「それはありか?」と思うような行動が多く、昔っから変な奴だったんだなと妙に感心した。年を取ると若いときは単純だったような気がしてしまうが、単純だったかもしれないが変ではあったようだ。

ミラン・クンデラ『カーテン』。いくつか印象に残ったこと。p.1189、作品は作家個人のみに帰属するものであること。ストラヴィンスキイとアンセルメのやり取り。これについては、改めて言われなければならないんだなあとへえと思った。そういえば井伏鱒二がある全集で「山椒魚」のラストをカットしてしまったことが大きな波紋を呼んだことがあったが、確かに読者もテキストをある意味「自分のもの」だと思っているよなあと思う。あの時は割りと日本的ななあなあのうちにうやむやになった気がするが、ヨーロッパでは対決しないとならないんだろうなあとも思う。

p.1523、「フロベールにおける愚行は違っている。それは例外、偶然、欠陥ではない。いわば量的な現象、教育によって治療しうる、知性のどこかしらの欠落などではない。愚行は治療不可能なのだ。愚行は愚か者と同様に天才の思考の中に、いたるところに存在し、「人間の本性」と不可分な一部分なのである。……『ボヴァリー夫人』においては、「あまりに善が不在である」というのは事実ではない。重要点は別のところにある。そこではあまりにも多くの愚行が存在している、ということだ。…だがフロベールは「善き情景」を描きたいのではない。「事物の魂」にまで到達したいのだ。そして事物の魂の中には、あらゆる人間的事象の魂のなかには、いたるところに、彼にはそれが、愚行という優しい妖精が踊っているのが見えるのである。この控えめな妖精は、善にも悪にも、知にも無知にも、エンマ(『ボヴァリー夫人』の主人公)にもシャルル(『感情教育』の主人公)にも、私にもあなたにも見事に順応する。フロベールはこの妖精を実存の大きな謎の舞踏会に導き入れたのである。」

これはなかなかすごい、なるほどとおもうし、あらゆる人間は愚行をし、それゆえに喜劇である、というふうにつながり得る。愚行というものを客観的に見ることは抒情とは相容れないものでもある。私なども両方面白いとは思うが、愚行の方により人間的真実がある、という見方のほうにより大きな説得力を感じる、ということはあるように思う。誰でもそうだとは思えないし思わない。また愚行と見ることですべてが理解し認識できるというわけでもない。現代はオタクを初め「愚行」にしか見えないことの中に結構人間的真実を探さざるを得ない現象が多くて面倒ではある。「萌えアイドル」とかって、「踊っている愚行という優しい妖精」そのものかもしれない。

p.168、「……ナスターシャたち、ムイシキンたち、私は彼らのような人間をどれだけ回りに見ていることだろう!彼らは全員未知への旅の始まりにいる。疑いもなく、彼らは彷徨している。だが、それは特異な彷徨だ。彼らは自らが彷徨しているとも知らずに彷徨しているのだから。というのも、彼らの未経験は二重だからである。彼らは世間を知らず、自分自身を知らないのだ。」

これはまあ、全くその通りだ。自分の10代後半から30くらいまでは全くその通りだったと思う。自分の周りにいる人たちも多くはそうだったし。

しかしまあ、こうして書いてみると、どうも「当たり前」とか「分かりきった」ことに見えてくるから不思議だ。私自身の認識の仕方が、実は昔から結構「小説」的だったということなのかもしれない。で、私が小説が苦手だったのは、そういういやらしい認識のさせ方をこれでもか、これでもかと見せられるところにあったのかなあという気もしてくる。つまり、一種の近親憎悪だったのかもしれないと。

まあそこまで言い切ることは出来ないが、でもいろいろな意味で認識が深まった気はしなくはない。こういう方向の読書体験は重要なものだなあと思う。


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