宮崎駿さんの「つまらない大人」観について:「つまらない」という言葉に現れた希望と重さ/「生活」の奥深さと「生活への憧れ」

Posted at 24/04/15

4月15日(月)晴れ

昨日は何をやるのか考えて優先順位をつけてからやろうと思ったのだがなんだかあまりこれということを思いつかずに少し片付けをしたり本棚(主にマンガ)の整理をしたりして、夕方買い物と本屋を覗きに行ったが新しい本は買わずに帰ってきた。

夜は少しうたた寝をして12時前には床に入り、目が覚めたら5時だったのでまあまあ寝たかなという感じなのだが、どうも頭の緊張が取れなくてぐっすりという感じではなかった。そういうわけで寝床の中で生活の立て直し的なことを考えていたのだが、ふと「日常生活」というものを立て直す、というか取り戻す、みたいなことが大事、というかそういうことをしてみたい、ということに思い当たった。

起きてきて台所兼食堂みたいな部屋で食品類がうまくまとまっていないのを畳んでない菓子箱が積んであったのでそれを使って整理したり、テーブルの上を拭いたり、「日常生活」的なことを始めたら、これは結構大事なことなんじゃないかということに思い当たった。掃除をしたり、洋服を整理したり、そういえば子供の頃にいろいろしつけられたことがあったが、まあ生活が「荒れている」時にはいろいろそういうことが疎かになるわけで、一人で「生活」をする、ということは意識しないとなかなかうまくいかないことなんじゃないかと思った。

女性の方が少なくともそういうことはしつけられていることが多い(最近の人はよく知らないが)から生活がうまく回らないというのはメンタルヘルス的なものがある人以外は大体なんとかなっているのではないかと思うけれども、まあそういう生活の仕方をしつける人は普通は母親であるわけで、祖父母と同居していればおばあちゃんがより本格的なことをしつけたりすることもあるだろう。(これも最近は知らない。私の祖母は明治生まれで女学校を出ている人なのでまあいろいろうるさいといえばうるさかった)

まあそういう意味でいえば「生活」というのは本質的に「おばさん的」なものなのだよなとテーブルの上の食品を整理しながら片付け方のコツみたいな「おばあちゃんの知恵袋」的なことに頭が動くことを頭の動きを観察しながら思ったのだった。そういう意味での「生活」というものからは、男は本質的に疎外されている部分がある気がする。軍隊帰りのような人たちの世代は奥さんが死んで一人暮らしになってもきっちり掃除をしたりラジオ体操をしたりご飯を炊いたりして生活していたイメージがあるが、その後の世代になると「今日の仕事は辛かった、あとは焼酎をあおるだけ」みたいな感じになるところがある。

まあ、最近の人は違うよ、村上春樹のキャラクターみたいに「泥棒カササギ」をかけながらパスタを茹でるんだ、という人もあるかもしれないが、ああいう「生活」みたいなものにもこれはこれでなんというか歪みみたいなものを感じるし、ジャストの「生活」とはいえないんじゃないかという感じもする。「生活というのはもっと地味で、それでいて静かに充実しているもの」である気がする。

そういうことから言えば、フェミニズムのように女性をどんどんそういう「生活」から追い出し「社会」ですり減らそうとし、男性を「生活労働者」として放り込んで消耗させようという方向性はいずれも「生活」の静かな充実を奪っている極端思想である感じがする。人間として尊敬できる人というのは、仕事はともかくそういう「生活」がはっきり充実している人だと思うし、そういう意味ではネットで話題になった「たのしいピクニック」や「サイゼで満足する女性」というのは尊敬できる人たちだと思う。

太宰治の「生活」という「詩」(と言っていいかどうか)があるが、

生活。

よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつっているのさ

どうにか、なる。

すごい絶望感の中で「生活」こそが生きていくためのよすがだ、というような感じが現れているように思う。現在炎上している「着替えを覗かれて起こっている女の子のフィギュア」の件でも、結局こういうフィギュアがなぜ作られるかというと、「着替え」という「日常性の高い行為」に対する憧れのようなものがそこにはあるからで、性的な部分はいわばトッピングなのだと思う。そういう意味では「たのしいピクニック」をフィギュア化してもそれはそれで結構売れるのではないだろうか。

「生活」というものの奥の深さというのはこの歳になってより一層感じることであるし、昨日見ていたNHKスペシャルの「行方不明になる認知症の人たち」の話でも奥さんが行方不明になった朝でも朝ごはんだけはちゃんと作ってあった、という話などは「生活」「習慣」それを実現するための「しつけ」というものの奥深さというものを改めて感じるなと思ったのだった。

***

昨日Twitterで話題になっていたのが、宮崎駿さんの言葉で「夢と希望に満ちた子供たちがみんなつまらない大人になる」というのがあるのだけど、これは「絶望」であるとか「人間嫌い」が表現された言葉だというやりとりがTwitter上にはあったのだけど、私はむしろそうではなくて宮崎さんのシニカルな「希望」の表現なのではないかと思ったのだった。

子供にはなんでもできるという可能性があり、夢があり、希望がある、というかそういう存在でなければならない、という眩しさみたいなものを宮崎さんは感じていて、でも子供は大人になる過程でそういうものを失いながら、大人として生きていく義務とか責任とか労働とかそういう「つまらないもの」を獲得していく、そしてそういう「つまらない大人」こそが社会を支えているんだ、ということである。

最初から最後まで「夢」とか「希望」として生きているように見える「風の谷のナウシカ」も映画版では奇跡を起こして終わるが漫画版では最後には「汚染されていない人類の種」を全て滅ぼす虐殺者となる選択をするわけで、そうした「つまらなさから逃げない」姿勢こそが正しいという展開になっている。

そういう宮崎さんの「大人」観が一番はっきり現れているのが「魔女の宅急便」で、一人前の魔女としての自立を目指すキキは知らない街でおばあさんに頼まれて孫の女の子にパイを届けるのに、嵐が来たり必死の思いで届けるのだけど、受け取った女の子はつまらなそうに「私これ嫌いなのよね」、という場面である。ひどいとは思うが、宮崎さんはこの場面について「労働とはそういうものです」という。この件もあってすっかり元気をなくしてしまい、今まで普通に話ができていた猫のジジ(猫と話すということ自体が夢や希望の象徴でしょう)とも話ができなくなり、「宅急便」の仕事をするためには欠かせない「箒で空を飛ぶ」ということ自体ができなくなってしまうわけだけど、絵描きの友達やおばあさんに励まされる中で少し元気になる中で、男友達のトンボを助けるために必死の思いで魔法が再び使えるようになる、という話である。宮崎さんはこの中で、「猫と話すこともできないつまらない大人になってしまったキキ」を「否定している」とはもちろん思えないわけである。

宮崎さんのアニメはそのようにしてみていくと「キラキラした夢と希望に満ちた子供時代」を描いたものは「崖の上のポニョ」くらいのものだし、「つまらない大人たちがつまらない大人として生きていく」、大人としての宮崎さんの「夢」で「飛行機の墓場」が描かれた、つまらないどころか豚になってしまった「紅の豚」ややはり全ては夢として終わる「風立ちぬ」などの物語もある。夢の中を生きるのか現実を生きるのかという選択肢は何度かテーマになっているし、それらで言えば「天空の城ラピュタ」や「もののけ姫」「君たちはどう生きるか」などの「男の子」を主人公とした話にそういう要素が強い。「千と千尋の神隠し」は女の子がある種の地獄巡りをする中で大人として生きるための予行演習をする、みたいな話だなと思うが、最後の場面は母親に縋り付くことで、また子供に戻っていくことが感じられて、豪華絢爛で壮大な夢として一つの人生が生きられた充実感があった。

まあそういうわけで彼のいう「つまらない大人」というのは文字通りの否定的な感情を表したものではなくて、生活や労働や責任や別離や喪失などの「つまらないもの」に満ちた大人たちへのある意味での応援をひねくれた形で表現したものではないか、と思うのだった。


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