「エビデンスがないとダメですか」について考えてみた:「エビデンス否定の暴走の危険」と「どんな思いを大事にすべきか」

Posted at 23/11/05

11月5日(日)晴れ

いつもと違う環境で目が覚めて、同じ街なのに新鮮な感じがした。外に出ると空気がひんやりして、空の見え方も違う感じ。気温は8.7度、少し高め。車のフロントも露が下りているが、凍結する感じはない。

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「データに殴られている感じがする」とか「エビデンスがないとダメですか」ということを主張した朝日新聞の記事がツイッターで批判されていたので、その辺について考えてみた。

https://digital.asahi.com/articles/ASRBZ3JWJRBWUCVL003.html

この記事はいろいろな問題をはらんではいるのだけど、自分が問題意識として拾い上げる価値があるなと思ったのは、「客観的事実より主観的真実を重視せよ」という主張だった。

それはつまり「データを持った権力者より個々の経験を持つ庶民の思いを拾い上げよ」ということなのだろうけど、それはそれで表現していく価値はあるし訴えていけばよいと思うが、それをメインの政策に結び付けていくことが妥当かどうかは問題になると思う。

国家の政策はある程度は最大多数の最大幸福を求めていくしかないし、より多くの人々がより社会における幸福度が上がるように決めていくべきだろう。そこに掬い上げられない人々のことは別途救済を考えるしかない。それが一般には福祉ということになるだろう。

現在の日本の経済社会はなかなか思わしくない状態が続き、一方で医療や福祉の負担が重くなっているのは事実で、ある程度はその負担を軽減しろという主張が出てくることはやむを得ず、それらを両立していくための工夫こそが日本にいま求められていることだろう。

外交政策や安全保障政策はそうした我々の生活の基盤であり防衛の枠組みをいかに維持強化していくかというものなので、ある種の社会インフラとして必要な負担ではある。

それらをひっくるめて民主主義社会というのは多数決を一つの決定手段として持っているわけで、そこに限界もあり、力もあるのだろうと思う。

もともと「エビデンス=根拠」と「気持ち」というものを対立的にとらえること自体がそんなに意味のあることとも思えない。どちらも人間にとって重要なものであって、エビデンスだけで行動している人間もいなければ気持ちだけで行動している人間もいない。気持ちに引っ張られがちな人もいるだろうし、気持ちを無視してエビデンスだけで人をねじ伏せようとする人もいないとはいえない。

しかし、現代のような大衆民主主義社会では、逆に「気持ち」や「不安」が暴走して「エビデンス」を否定し、その「エビデンス」に拠って立って傷つきながらも頑張ろうとする人たちを否定する動きも決して無視できず、福島原発事故のあとの朝日新聞の報道に関しては放射能の恐怖をあおるような決して褒められない、検証すべき「気持ち偏重」の報道を行ってきた事実がある。

そしてそれが福島で頑張ろうとする人たちにとっていかに弊害になってきたかということである。それをはねのけるために、おおくのひとたちがエビデンスを積み重ねて少しずつ国民全体に受け入れられるように努力してきた、そこに現在の批判の論点がある。

今朝日新聞が批判されているのはそうした報道を反省するのではなく、むしろ「エビデンス」よりも気持ちを重視しろ、「エビデンスがないとだめですか」と甘えたような言い方に背後に「いくらエビデンスを積み上げても福島が安全にはならないという気持ちは止められない、この気持ちは「絶対」のものであり、エビデンスを積み上げる努力はやめろ」という攻撃の意図が隠されているからだろう。

また、理念や思想というものは「いかなる社会がよい社会か」という方向性を示すものだが、それは常に検証も必要だろう。また「人権思想」など国際社会において「思想」というよりは「規範」として参照されるべきものもある。これらは国際条約により根拠が示されているわけだからむしろそういう主張にこそ根拠がある、と「気持ち」でなく「根拠」に基づいて主張することがより多くの人に共有される可能性もあり、気持ちのみを掬い上げるだけでなく共有された基盤を作って話し合うこともまた考えるべきだろうと思う。

文脈的に「理想がないがしろにされている」という危機感も「エビデンスの暴走」に結び付けて語ろうとしているのは人権などの規範の国際的な確立に努力してきた人々の労苦を否定するものになりかねない。

「事実ないしエビデンス」と「気持ち・感想」を分けて考えるのは、物事を客観的・論理的に考える上では、またより事態を正確に理解するための報道にとっても重要なことで、こうした報道の暴走は気持ちを暴走させた大戦中の報道とも重なりかねない。

問題があるとしたら、「エビデンス」というものをより狭く考えすぎることであって、たとえば「漁師の直感・観察」とか「津波がここまでくるという言い伝え」みたいなことも、災害などの事態においては十分に一つのエビデンスとしてとらえるべきだ、というようなことであり、それを無視して多くの人が津波に巻き込まれたというようなことこそが反省すべきことである。

災害後の福島においては「不安を感じている」人たちだけでなく、「頑張って前向きに動こうとしている」人たちもまた同じく被災者なのであり、どちらか一方の立場に立つことのみが正しいわけではないだろう。特に頑張っている人たちに心無い言葉がぶつけられている現状の方がより問題であると私などは思う。人はどういう状況の中でも生きていかなければならないのだから、それを権力者側と切り捨てるのは正しくないと思う。

科学的エビデンスに基づいて物事を進めるのは、原発事故の後処理のような人類が経験したことのない事態においては一つの明快な基準であり、また最大多数が納得できる根拠となりえるだろうと思う。もちろんそこはより慎重に進めるべき部分はあるが、私などの方から見ると慎重すぎるほど慎重だと思う。

少なくとも、「福島は見捨てられてはいない」と思えるように、「人が幸福に生きていく土地として再生させる」という思いこそを大事にして、物事を進めていってほしいと思う。

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