少女の側の欲望についてなど

Posted at 23/09/04

9月4日(月)雨

東京にいる。昨日午前中に帰京して東京駅中で焼き肉丼を買って帰って家で昼食後、夕方神保町に出かけて本を見たり、レコードを見たり。結局戦前のバイオリニスト・ブロフスラフ・フーベルマンが1930年前後に録音したSP盤のラロのスペイン交響曲とチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をLPに再録音したレコードと、アーノンクールが振ったヨーロッパ室内管弦楽団のモーツァルトの交響曲、38-41番のCDを買った。こちらは二枚組だがフーベルマンと合わせて1000円くらい。盤質Bとのことで今聞いていたが、今のところ問題なし。

そのあと古瀬戸珈琲店でカレーとレッカライを食べたのだが、冷房がよく効いていて半袖で行ったのは失敗だと思った。外に出てしばらく歩いていたら店の人が追いかけてきてレコードを置き忘れたことに気付いた。何をやってんだか。

神保町の方まで歩いて三省堂の仮店舗で美術関係の本や音楽関係の本を立ち読みしたり。女性作家の画集を見ながら、いろいろ考える。

ペドフィリアが性的少数者であることは間違いないと思うが、それがLGBTQ+のQ+の中に入るかについての議論を数日前に読んでて、もともとは連合して性的少数者の人権回復の主張がなされていたのが90年代にLGの運動家が超保守勢力と結託してペドフィリアだけを除外して権利の回復を認めるような動きをつくったという話を読んだ。それで今はペドフィリアが不可触賤民的な扱いを受けているという話。

大人が第二次性徴前の子どもに(実行するしないにかかわらず)性欲を持つというのはあり得ることだと思うが、逆に言えば少女・児童の側のセクシュアリティとか性欲というものが等閑視されてるのもまた奇妙な感じはするなということを思った。

女性の作家や画家の作品を見ていると、少女の頃のそういう昏い欲望のようなものを内に貯めたマグマとして表現してる人がとても多いということを思う。

ただこれは表現の仕方によって問題が出てくることは確かで、写真家のイリナ・イオネスコとかももともとはそういうものを表現したかったのだと思うが、彼女の場合はそのためにモデルとして自分の娘を使ったので後で娘に訴訟を起こされることになった。

チャイルドマレスターとかの問題は一方的に強要することが最大の問題であって少女の側がその性欲の捌け口を大人に求めることが起こらないとはいえない。もちろんそれに応ずるか否かは大人の側の問題であるわけだが。結局のところの現代の共通認識としては少女の性欲というのはあるし、それが大人の男に向けられることもあると思うが、ただそれは性行為という形で昇華すべきものではないということになっているのだと思う。

これはもちろん少女・子どもの側が心に傷を残すということが最大の問題であるわけだけど、それがなぜいけないかというと、それによって深くて広い性的な世界を正当に享受できなくなることなのだろう。このことについての女性の怒りの凄まじさというものが、こういうものに反対する女性たちの一つの原動力になっているのだろうと思う。そういうものの世界の広さと深さというものには、少女マンガというものが原則として恋愛を扱うものであるということにもなっていて、それらの健全な昇華と享受というのは人間的な権利の根本にあるのだろうと思う。

そう考えてみるとそういうものから疎外されているそういうものにない男性たちのやり場のない怒りみたいなものもまた考慮の対象にはなるわけだけど、それはまだどう考えるべきなのかはあまり適切な言葉としては得られていないのでまたの機会に考えてみたい。

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by Luke Peterson

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