「世界が日本を見倣う日」/アメリカの対日戦略の見倣うべきところ/「相対化」という負の思想遺産/ウクライナ戦争の教訓:友好のみを目的としない外国研究

Posted at 23/07/28

7月28日(金)曇り

昨日も日中は暑く、これは凌ぎにくいなあと思いながら午後2時前に郵便局に出かけて切手を買って外に出たらいきなり土砂降りで驚いた。大気が不安定とはまさにこのことだなと思ったが、その後ツタヤに行って月刊スピリッツを買ってきたが、ツタヤではほとんど降ってなくて市内に戻ってきたら急に雨足が強くなった。本当に局地的な雷雨という感じだったのだろう。その後近隣の村に住んでいる人と会って話をしていたら、そちらでは全然降ってなくてこちらにきたら降っていたということらしい。雨が降ると蒸し暑くはなるが気温は下がるので良いニュースと悪いニュースが一つずつある、みたいな感じである。

今朝は3時ごろ寝苦しくて目が覚めてしまい、もう一度寝ようと涼しい1階に布団を敷き直したが、結局眠れなくて起き出した。いろいろ片付けているうちに父の蔵書の一部を収納してある部屋の本棚を見ていて、長谷川慶太郎「世界が日本を見倣う日」(東洋経済新報社、1983)、対日貿易戦略基礎理論編集委員会「公式 日本人論 「菊と刀」貿易戦争篇」(弘文堂、1987)、中村修二「考える力、やり抜く力 私の方法」(三笠書房、2001)などという本を見つけ、とても懐かしい気がした。

1980年代、日本が大国化しつつあり、経済的に繁栄し、政治的にも地位を高めつつあった時代、そしてそれに警戒するアメリカが日本を研究した書、のちにノーベル賞を受賞した青色発光ダイオードの発明者の本。つまり、空威張りではなく本当に日本がすごかった時代の本たちである。

昨日は福島第一原発の事故に関連して、日本がどうしてこうなってしまったのかということを考える中で、日本は中国にもアメリカにも飲み込まれることなく自立していかなければいけない、みたいなことを書いたら反応が薄かった。これは保守に関することを書いてる時にはいつも起こる現象なのだが、つまりは「日本人が自信を失っている」ことの表れなんだよなあと思ったわけである。日本が良い国・強い国になることには特に異論はなくても、そんなの無理だよなあ、みたいに思っている人たちが多数派なんだろうなと思う。

まあその辺は私は「あきらめたらそこで試合終了だよ」と思う方なので、あきらめている人たちにどうすれば前を向かせられるのか、みたいなことを考えるわけだが、まあとにかくみんなが前を向いていた時代のことを振り返ってみるのもいいかなという気はした。

また、「アメリカは日本をなめてるし舐められても仕方ない」と思ってる人たちがどうも多いような気がするが、第二次世界大戦中に日本と戦うためにまとめられた日本人論・「菊と刀」もそうだが、この「公式 日本人論」も、アメリカが日本との貿易戦争に勝つために総力を上げてまとめたものであって、その姿勢を見ればアメリカは決して日本を舐めているわけではない、ということがよくわかる。日本人はそういうところをちゃんと認識しないで勝手に驕り高ぶったりやられて仕舞えば卑屈になったりするだけで、そんなことではダメなのだと思う。

これはすでに書いたかもしれないのだが、今考えなければならないことは伝統的・常識的な知の体系を見直し、再強化することだと思う。それはフェミニズムやLGBT思想に引っ掻きまわされてその価値がわかりにくくなってしまっている、すごく簡単に言えば「昭和(ないしそれ以前)の価値観・常識みたいなもの全体」の見直し、再評価ということになるのだろうと思う。

そこのところはどう言えばいいのかわかりにくいところもあるが、失われてきた「学問の権威の再構築」であるとか、「科学や技術に対する信頼性の回復」みたいなところがポイントになっていくのだろうと思う。

わかりやすいテーゼによって人口に膾炙させやすいアメリカ的・欧米的な価値観と違い、日本の伝統的な価値観というのは言葉にすればとても陳腐で、その再評価というのは簡単な話ではないよなと思う。

あらゆる前代のものを悪と決めつけ否定・批判していく運動家たちのやり方も一つは問題なのだが、もう一つは全ての価値を相対化していく80年代以来の良くない意味での価値中立化もこれに拍車をかけたと言えるだろう。伝統の価値というのは伝統を守ることによってしか輝かないが、それは相対化されないところに意味がある。キリスト教の伝統はその相対化を防ぐための無数の言説によって守られてきたわけだけど、日本人はもともと融通無碍なので割合あっさりと伝統を投げ捨てたりする。ただそうしてしまってからなんとなく居心地が悪いな、ということになってしまうわけで、その辺りのことを言語化することは大切なことだと思う。

福島のいわゆる「処理水」の放出問題にしても、科学的に問題がないことはIAEAなどの国際機関を通じても証明されているわけで、それに文句をつけるのも「反権力は正しい」というだけではなく、ある種の「相対化することは正しい」という間違った意味での相対化が起こっているということはある。

人間のやることだから絶対に間違いはないとは言えない、という意味での相対化はまあ神ならぬ身である人間には避けられないが、豊かな地下水や伏流水が流れる福島の自然環境が仇になって放出できずにいる水は溜まる一方であり、それはなんとかしないといけないことは明らかなので、粛々と必要な措置を行った後で放出する以外に方法はないことは誰の目から見ても明らかなはずで、そこに待ったをかけることの意味は本当はない。それを意味あるものと錯覚させているのは「相対化の正義」みたいなものが変な形で残っているからで、80年代ニューアカデミズムの負の遺産だというべきだろう。

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今朝いろいろサイトを見ていて気づいたのだが、「ついログ」が復活していることに気づいた。4月頭に使えなくなっていたのだが、5月23日頃に復活したらしい。2ヶ月余りそれに気づかずにいて、ずいぶん損をした感じがする。私はツイートしたことをもとにブログを書くことが割とあるので、ツイッター公式で過去ログを読むのに比べついログははるかに読みやすいから、大変ありがたい。

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表現規制問題に関して考えたことを一つ。現在のフェミニストたちはなぜこんなに「キモオタがシコる画像」みたいなものに神経質に攻撃するのか、ということを考えていたのだが、これはつまりオナニー・自慰が「自瀆」などと呼ばれたいた時代や考え方、つまり旧約聖書で自慰行為が禁止されていた時代の価値観が復活しつつあるということなのかもしれないと思ったのだった。数十年前からそうした行為は問題ないとされるようになったわけで、「モテない男は一人でシコって一人で死ね」みたいなことを言っていたフェミニストの大家がいたが、彼女は今のフェミニストに比べるとよほど文明的であったのだなと思う。

現代のフェミニズムに対するキリスト教矯風会の影響などは語られる機会はあるわけだが、運動界隈もどんどん保守化・禁欲化が進んでいる面があるということは認識しておいた方がいいように思った。

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実際、日本の外国研究は基本的に「最終的には友好が目標」みたいな研究者が多く、それはそれで悪いことではないのだが、イスラム過激派のテロ行為や組織的なテロが起こったり、またロシアが理不尽な戦争をウクライナに仕掛けたりしたときに、「友好」だけではなくその前提となる「イスラムの本質」「ロシアの本質」みたいなものをちゃんと研究する必要があるように思うのだが、そうした問題意識を持った研究者はその世界において爪弾きにされたり攻撃されたりする傾向があることが、ツイッターを読んでいても観察されることがある。当然ながら日本とは違う文明であり文化であり宗教なのだから、友好関係が結べるとは必ずしも限らない、という前提は持つべきなのだけど、どうもその辺が学校教育での「みんな仲良し」という強制的な押し付けの枠を出ないところがある。

それは学校内においては「いじめ」のような深刻な現象をもたらすこともあり、また対外意識においても「金正日とも酒を酌み交わせば理解し合える」みたいなちょっと話し合えばアインシュタインの言ってることは全部わかる、みたいな幼稚な考えがのさばる背景にもなっているようには思う。

最終的に戦争の発生を防ぎ、平和を構築し、その前提のもとでお互いの理解を深め、共存・共生できるところは共存し、無理なところは距離を置いて線を越えないという形で生きていけばいいのだが、そこが無防備すぎる。

欧米社会がそれを主張するのは自分たちの価値観が絶対だと思っているからであって、全ての人間がそれを受け入れる前提のもとで「共存共生」すればいいと考えているわけだが、西欧の価値観を受け入れない、あるいはシステムに弾き出されたイスラム系の人々が欧米社会によく言えば異議申し立て、悪く言えば混乱をもたらしているのが現状だろう。

そこで自分たちの価値観が間違っているかもしれないという謙虚さを持てばいいのだがそういうことはないわけで、逆に言えばそういう絶対的な価値観がない日本が無防備にそういうことをやれば良いことはないのはある意味誰にでもわかることだと思う。

まあだから、本当に必要なのはまず日本が中国にもアメリカにも影響されずに独立の地位を確立すること以前に、日本が「自分たちはなんなのか」「日本はどういう国なのか」「日本人はどういう人たちなのか」を知ることの方が大切なのだろう。無数の日本人論が語られてきたのは一つにはそのせいなのだけど、ただ結局のところある種のプロパガンダ以上のものにはなってなくて、我が国が他国とどう付き合っていくかのベースになるような認識を育てる議論として提出されたものがどれだけあったかというのが問題なのだろう。

それは他者からの分析ではなくて、日本人自身による日本人論が、誰かの主張を反映したプロパガンダとしてではなくて、必要になってくるのだと思った。

長谷川慶太郎が言うところの「世界が日本を見倣う日」がやってくるように、取り組んでいかないといけないなと思う。

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