「天国大魔境」:「崩壊後の世界」という伝統的題材の描き方の今日/「正しさの商人」:「敗戦国と日本の原罪」のリフレインとしての「フクシマ」の存在

Posted at 23/07/27

7月27日(木)晴れ

大したことを何もやっていない感じなのに、もう木曜日になり、月末も近づいてきている。一応いろいろやってはいるのだが、海の底の基礎工事みたいな感じでまだ表に効果が現れるのは程遠いことなどやっている。ただ、まあそういうことは嫌いではない。しかし莫大なエネルギーは使うよなと思う。

昨日は夜11時ごろには休んだ。昨夜もかなり強い夕立があったので朝方の気温は21度まで下がり、比較的凌ぎやすかった。1時過ぎに足が攣って起きたので入浴して温め、その後は4時過ぎまで眠れた。パジャマは割と汗まみれではあったが。

朝は割と気持ちよく起きられて、空気が気持ち良い感じなのが久しぶりだった。お茶を飲んで洗濯機をかけるなどし、洗い物をしたり少し片付けたり。作業場まで歩いて空きペットボトルを持ってきたり。朝のうちは少し軽作業するのがいい感じだと思った。

5時過ぎに出かけてセブンイレブンでヤンジャンを買い、職場に出て資源ごみの整理など。また、昨日電源が入らなくなって困っていたミニコンポだが、職場で電源を入れてみたら入ったので、こちらの故障ではなかったようで、そのまま持って帰ってもう一度セットしてみたのだが、同じコンセントに入れるとつかないが他のコンセントに入れたらついたので、どうもパソコンデスクのコンセントの問題のようだ。また後で見ておこうと思う。コンポ自体の問題ではなかったので良かった(メーカーも倒産しているし)のだが、まあやることは増えるのだよななんだかこういう時は。

「天国大魔境」1巻から最新話まで全部読み直したのだが、連載は読んでるし単行本も持っているのだが、話の筋が追えてなかったところがかなりあった。特に登場人物が久しぶりにで来ると、また「高原学園」の生徒たちが崩壊した世界に出てきて別の名前になったりすることもあって、人物図を描いてみないとわからない、という感じになっていた。ただアフタヌーン9月号の最新話まで読むとだいぶ秘密も明らかにされて話の大筋がわかってはきた。しかしなぜ死んだら「ヒルコ」になるように子供たちが生み出されたのかとか、その辺はよくわからない。

「ヒルコ」というのは古事記に出てくるイザナミとイザナギが産んだ「神になり損なって捨てられた」存在のことだろうとは思う。これは諸星大二郎の「妖怪ハンター」にも出てきたが、それよりはだいぶ進化?していろいろな能力を持っている。それを退治する武器を「ミクラさん」がキルコに渡し、「マル」はヒルコの「核」を掴んで他の手段では倒すことのできないヒルコを倒すことができるのかなど、わからないことはまだ多い。

「崩壊後の世界」の話というのは80年代以降いろいろと流行ったし、その中の最高傑作の一つが「風の谷のナウシカ」だと思うが、世界の崩壊前に「子供たちを性別もなく等しく育てられる「理想の」学園」みたいなものが出てきて、ただこの子達は必ずしも普通の子供たちではなくまたどのようにして生まれたのかもわからないところはあるのだけど、その中で性的なものを自分たちで発見して愛し合うようになったり子供が産まれてしまったりするという展開は「ジェンダーレス教育」みたいなものに対する批判のようにも思ったし、そういう情報がなくても大きくなったら自然にそういうふうになる、みたいなテーマは「青い珊瑚礁」を思い出したりした。

そういう点でこの話はまさに2010年〜2020年代にしか産まれなかった「終末もの」であるようにも思うし、「終末前を知っている大人たちの世界」と「終末後に生まれ育って「逞しく」生きる子供たちの世界」、これは戦災孤児たちの話と割とイメージが重なるのだが、中で起こっているさまざまなエピソードもバタくさいものがあまりなく、日本の土着的な感じなところもまた新しいのだなと思う。まあ、コミケや創作的なものを見ているとこういうテーマはそう珍しくはないのだが、「BLAME!」のような弐瓶勉さんの世界とはまた違う終末後の描き方、「シドニアの騎士」は中身がやたら昭和でそれはそれで面白いのだが、そういうのと違うより日常性の強い(と言っていいのか)方向性で描かれているのは興味深いなと思う。

一つ一つの場面が面白くて全体的な筋が追いにくいのはちょっと「進撃の巨人」に似てるなと思った。「天国大魔境」もおそらくはそろそろクライマックスになるだろうと思うので、楽しみにしたいと思う。

***

「正しさの商人」も読んでいる。第二章の112ページ、「情報災害を広める風評加害者」まで読んだ。

「福島が原発事故で汚染された地域であり続けている」という風評がなぜなくならないかというのは以前から疑問には思っていた。場所も状況も違うが原爆が投下された広島や長崎の町が戦後急速に復興していったのと福島の現状がなぜこんなに違うのかも疑問である。原爆は何十万もの人の生命を奪ったが、原発事故では事故そのもので命を落とした人はわずかしかいない。それも放射能そのものが原因で亡くなった人はいないと記憶している。

それがなぜ現在こうした状態になっているかということなのだが、この本では「さまざまな(主に政治的な)意図を持って危険だという風評を流す人々やマスコミ」の存在と、「それを強く否定しない行政の姿勢」が問題視されているように思った。国レベルでは外交的にもかなり強く否定しているのだが、肝心の福島県知事らが消極的で、しかもその知事が3選されていることなど、理解に苦しむところが多い。

これは福島差別の「寝た子を起こすな」理論などによる部分も大きいという指摘はあるが、私が思ったことを一つ挙げると、もともと日本では「唯一の被爆国」であるということもあり、「原子力の利用」ということに対して強い忌避感があったことは大きいだろうと思う。

原水爆禁止運動や反核運動など、主にソ連からの援助もあり、運動主体も共産党系と社会党系に分裂したりしながらもずっと続いてきている。その他沖縄の基地問題や水俣病などの公害問題など、「アメリカに対する不信」「科学技術と工業に対する不信」みたいなものが社会問題として日本の(特に左翼的な)「社会意識」の底流にはあり、それらが一体となって「原発事故を起こした国と大企業」に対する攻撃をしたい、という反権力意識に結びついているのだろうと思う。反原発運動は日本において左翼運動の金城湯池であり、ここがある種の本丸であるわけである。

だから「福島に生きる人は不幸でなければならない」「頑張ってるなどもってのほか」「福島の食品は汚染されてなければならない」というような奇妙な信念が「反権力は正しい」という観念によって正当化され、「差別こそ正義」みたいな現象になってしまっているのだろうと思う。

だから根本的にはまだまだ強く残っている「敗戦国とその原罪」という意識が手を替え品を替え表れているんどあろう。日本よりはるかに大量の放射性物質を海洋に放出している韓国や中国が処理水放出に反対し輸出規制などに動いているのも、要は「侵略国である日本を永遠に罰する」というムーブメントの一環であると理解すればわかりやすいように思う。

結局のところ、こういう問題の根本には「アメリカ追従=資本主義立国」路線をとった自民党・主流派に対する「異議申し立て」としての左翼運動がいろいろな現実的な側面で敗れていく中で、「自民党政府・大企業大資本がやらかした大失敗」として「永遠に糾弾すべき対象としての福島」というものを守り続けているということなのだろうと思う。

結局、最終的にこの問題を解決するためには、日本が中国にもアメリカにも依存しない独立国家としての地位を回復するしかないと思う。保守派の人々すらアメリカ追従の姿勢が強く、それが「現実的」だというのがもはや言い訳ですらない本音になっているのは正直情けない。左翼の側も日本国内の問題に韓国や中国の言説を援用して政権を非難する情けなさを見ていると、明治維新の際にヨーロッパ各国の介入を阻止した薩長の見識を学ぶべきだと思う。

いろいろな見方はあろうが、今までのところそうした独立国意識を最も強く持っていたのは安倍政権だと考えざるを得ず、その意味でもその喪失は大きいと思うのだが、それはそれとして、風評加害者の誤情報の垂れ流しなどを厳しくチェックしてそれがいかに間違っているかを伝えていく活動そのものは地道だけれどもとても大事な行動だと思ったのだった。

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