「力の感覚」と「自己肯定感」/「人間の決めたルール」の怖さ/「ベラルーシを知るための50章」:リトアニアの重要性と東方典礼カトリック教会

Posted at 23/07/12

7月12日(水)晴れか曇りか

昨日は早朝に起きて6時前に家を出、車で実家に帰ったが、木場入り口から石川PAまでスイスイだったので今日早く着くかなと思ったのだが、結局3時間くらいはかかった。途中の韮崎あたりの対面通行になっているところで渋滞が発生していて、流れが悪かったのはそこだけ(いつもは幡ヶ谷の合流から高井戸を過ぎるまで必ず渋滞していた)なのだが、時間帯ということもあるのだろうな。朝は体が疲れてないので運転しやすいし西に向かっているから太陽も関係ない。早朝に起きなければと意識するので夜の眠りが浅くなりがち(熱帯夜ということもあり)なことを除けば、朝出るのは悪くないなと思った。仕事中に眠くて仕方なかったが。

昨日は特に考えずに書いて、後でなるほどと思ったのが、「状況がコントローラブルであるかどうか」ということが自分自身の「力の感覚」に大きな影響を及ぼすのだということ。

状況がコントロール可能であると捉えられていると「自分はできる」、「これはなんとかなる」、と考えて解決に向けて「力を入れられる」が、「状況がアンコントローラブルである」=「自分には何もできない」と捉えてしまうと取り組む道筋が見えにくくなって「力が入りにくい」。

これは東京の家で玄関灯を修理していて思ったのだけど、「都会で暮らす」ということは、特に注文・建売住宅や集合住宅で(比較的新しいものがよりベター)暮らすということは、「多くのことがコントローラブルである」ということで、田舎の古い家では何をどうしたら解決できるのかわからないことがたくさんある。そういうのを考えているうちに力の感覚が失われていくということなんだろうなと思った。

逆に言えば、都会人は「レディメードの世界」に暮らすことに慣れているので、そうでないものに対して「なぜコントロールできないのか」と腹を立てたりすることになるんだろうなと思う。津波が来るときにすぐ避難せずに「保護者が迎えに来るまで学校で待つ」という「人間の作ったルール」に固執して多くの犠牲者を出した「学校というもの」がなぜそうなってしまったのか、ということは自然というものは人間のルールや力の感覚が通用しないから恐ろしいのだ、という基本的な人間的な感性さえ失わせてしまう「都会感覚」のなぜるワザなんだろうなとは思う。

ただまあ、1人の人間として考えてみたら、何をやったらいいかわからない無力感のある状況よりは「こうやればうまくいく」という「力を感じる感覚」で生きていた方が生きやすいし力が発揮できることは間違いないわけで、そういう状況を作り出していくことは大事なことだなとは思う。

***

この「力の感覚」と「自己肯定感」というのがどういう関係があるのかなと思ったのだが、「自己肯定感」そのものが「力の感覚」かというと少し違う感じはする。ただ自己肯定感があった方が力の感覚を感じやすいことは間違い無いだろうとは思う。

逆に、「自己否定感」というのは「自分には何もできない」「自分はダメだ」「自分は生きている価値がない」みたいになることである部分もあるわけで、ということは「自己否定感」と「無力感」は大きな関係があるとは思う。

この辺突っ込んでいくといろいろ考えられそうだが、「人間の決めたルール最優先」みたいな感覚が悲劇を招くことは間違いないので、そういうことを含めて考えたい人が考えて何か書いてくれるとありがたい、ととりあえず他力本願のことを書いておきたいと思う。

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昨日は途中で読む気を失った「国家はなぜ衰退するのか」を返却し(そのうちまた読む気が出たら読もう、「インディアスの破壊」みたいなところをあまり読みたくないなと思って読む気を失った)、「ベラルーシを知るための50章」を借りてきて読み始めた。ベラルーシという不思議な国がなぜできて、一体どういう地域だったのかとか、いろいろと面白い。

モンゴルの到来によって古代のキエフ・ルーシの統合力が失われた後、台頭したのはタタールのくびきから自立したモスクワ公国だけではなく、空白に勢力を伸ばしたリトアニア大公国もあり、一時は黒海の近くまで(現ウクライナ)の広大な領土を支配したが、この国の基幹民族はバルト系のリトアニア人だったが民衆の多くは東スラブのルーシ人だった。一方で西隣のポーランドも勢力を伸ばしつつあったが、女王の後ろ盾としてリトアニア大公が望まれたことで両者が結婚することで同君連合が成立し、それはルブリン合同で「共和国」として一体化し、そのことで現在のキエフなどがリトアニア領からポーランド領に移ったのだという。現在のベラルーシとウクライナの境界はほぼこの時にできたものなのだという。

この本はベラルーシについて書かれているので当時のウクライナがどういう状態だったのか、ベラルーシとどう違ったのかがよくわからないのだが、とりあえずそのことは頭に入れて今後はその辺りのことを読んでいきたいと思う。

リトアニアの文化は、貴族がカトリックに改宗していき、そのためにどんどんポーランド化していった面がある、というのがこの地域のおけるカトリック化というのがすなわちざっくりと言えばポーランド化であったというのも押さえておきたい。実際に考えてみればドイツ騎士団の影響もあったと思うのだが、その辺のところは他のものも読まないとはっきりとはわからないだろう。

あと、大事だと思ったのが「東方典礼カトリック教会=合同教会」の成立。すなわち、教義はカトリックに従うが典礼は正教会のままでいい、ということで認められた東スラブ地域の教会制度で、ウクライナについて読んでる時もそういうのがあるのだなとは思ったのだが、あまりピンときてなかった。ベラルーシにとってはこの教会の成立はかなり重要であったように思われる。当時はすでに宗教改革の時代になっていたからカトリックとしては少し妥協してでも勢力圏を維持する意味があったのだろう。18世紀末のポーランド分割の当時は、ベラルーシの農民の8割が合同教会の信徒であったのだそうだ。

ロシアの歴史、ウクライナの歴史、それぞれそれなりには読んでいるのだが、どうもわかりにくかったところがベラルーシの歴史を読んでみるとわかる、というところがあるように思った。ウクライナとベラルーシはソ連邦の中で独立した共和国の地位を与えられているので現在も独立国になっているが、ロシアの領域内のより小さな民族集団はその地位がないわけで、それに対する研究はやはりウクライナやベラルーシほどは進んでいないだろうと思う。その辺りも見ていくことでこの地域の性格や特徴もよりわかっていくのではないかと思った。


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