「アーティストのためのハンドブック」を読み始めた:才能という運命論/作品作りのほとんどの過程は誰にも関心を持たれない/アーティストというアイデンティティ/丸ビルのツタヤとスタバ

Posted at 23/06/12

6月12日(月)梅雨空時々降ったり曇ったり

昨日は午前中に車で帰京したのだが、東京に近づくにつれてマスク着用率が下がってきて、そういう意味では平常化しつつあるのだろうなと思った。思ったより出るのが遅くなり、時間もかかって自宅に到着した後も何となく何かを片付けるというよネットを見たりいろいろしていたのだけど、夕方になって出かけないとと思い出かけたのだが、当てもないままとりあえず大手町に出て、丸の内丸善で本を見たりマンガを見たりしていた。

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買ったのはベイルズおよびオーランド「アーティストのためのハンドブック」(フィルムアート社、2011)。私が買ったのは2022年に出た第6刷なので、ロングセラーになっているということだろう。

1章の冒頭にヒポクラテスの有名な格言が引用されている。これは「人生は短く、芸術は長い」という言葉として知られているのだが、本来は「人生は短く、技芸の道は長く、好機は流れやすく、経験は頼りにならず、判断は難しい。」という意味だ。引用されている言葉の訳は少し違うが、大事なことはつまり「少年老いやすく、学成り難し」という朱子の詩句と同じ内容だ、ということだ。

1章ではまず、「才能」と「作家としての成功」の関係について述べられていて、ナボコフが「作家の成功はその人の才能の有無にかかっている」という趣旨の考えについて、「真実かもしれないが、運命論にすぎない」。と書いている。つまり「運命論」とは決定論だから、作者が作品を諦める言い訳に使うことはできるけれども、作品をつくる励ましにはならない、ということだ。

作者は、そうではなくコンラッドの言う「自分の運命は自分の手の中にある。しかしその手はとても弱いものである」という別の運命論を信じよう、という。「運命が自分の手の中にある」のなら、自分のやることはただつくることだけで、「才能はそのための道具としてほとんど役に立たない」という。

これはそこまでではないだろう、みたいなことを思うけれども、それは確かに文章を書いたり意見を述べたりするうえでも『親から受け継いだ文化資本の有無』がものを言う、という発想と共通点がある。親も育ちも通常は選べないから、この運命論には説得力がなくはないのだが、文化資本を生かしてよい作品が造れるという人はもちろんいるのだけど、それだけで作れたわけではないだろう。

これは女性の容姿でもそうで、「ナチュラルで努力しなくても美人」な人はもちろんいるのだが、努力で自分の望む容姿を達成している人の方が多いだろう。今話題になっている「グラビアアイドル」にしても、「グラビアトリ」というマンガを読んでなるほどなあと思ったのだけど、彼女らにはそれまで自分に自信が持てることがなかったのが、グラビアに出る決断をして自分を磨いたことによって輝く美しさを獲得した人が多い、ということを知った。「性の商品化」とか「性的搾取」といった理屈による弾圧は彼女らの努力とその達成しようとする情熱においては妨害でしかない、という側面もこうした主張をする人には考えてもらいたいところがある。

なるほどなあと思うというか、うまいこと言うなと思うのは、「作品とは天から与えられた贈り物」という考えは間違っていて、「自分の声に従うことで作品は際立つものになる」のだ、という指摘だ。確かに作品をつくっていると、あるいは文章を書いたりしていると、天から啓示が降ってくることを待つ、みたいな心境になっていることはあるが、結局アイデアを選び取り、それを判断するのは自分であって、そのアイデアをどう料理するかは自分自身にかかっているわけであり、神様にゆだねることはできない。自分から展への創作のアイデアの通路を遮断することもないと思うが、アイデアを受け取った後は結局個人的な作業になる、というのはその通りだと思う。

また、作家は「特別な人間ではなく普通の人間である」というのもなるほどと思うのは、普通の人間としての悩みや苦しみが創作の源泉になったり強さの源泉になったりするという指摘で、確かにいわゆる天才や聖人なら何も作品をつくることはない、というのはその通りだなと思った。この辺、音楽をやる人の「モーツァルト=天才」信仰というのを思い出すが、近年の研究では彼のメロディラインなども他の作品から拝借したものが割と多いという話もあり、もちろんその出来栄えが素晴らしいことに異論はないにしても、『天才だからできた』と評価するのも違うかもしれないという気はする。ただ、彼をそうした偶像として崇拝して、少しでも彼に近づくことを願うという創作の方向はあり得ないことではないなとは思う。

作品を見る人にとって大事なのは出来上がった作品であり、作品をつくる人にとって大事なのは作品制作を研ぎ澄ませるプロセスである、というのも全くそうだなと思った。アーティストは作品制作の過程で、「ほとんどの時間を誰にも関心を持たれないような作業に打ち込んでいる」という指摘があり、ああ、この人は本当に作品をつくるということの本質が分かっているのだなと思うのだが、要はこの作業をしているときにハイになっていればその段階を乗り切れるのだけど、普通あるいは普通以下の心理状態で取り組んでいるとものすごく不安になってくるのだ。

この「不安に打ち勝つこと」が作品を完成させる唯一の条件と言ってもいいくらいで、逆に言えばこの段階にいるときにあまりハイになっていると冷静な判断ができないから、むしろ普通の方がいいわけで、結局「不安に苦しむことがよい作品を完成させる条件」みたいになってくるわけである。

これは「創作」「創造」というプロセスにおいて際立つ特異な特徴だと思う。たとえば、受験勉強なども「自分は何をやっているのか」「こんなことをしていていいのか」「ほかの人はもっと良いやり方をしているのではないか」「今取り組むべきはこの教科ではないのではないか」みたいな不安にとらわれることがあるが、一番ノリやすいのは何も考えずに打ち込むことによって「ランナーズハイ」ならぬ「勉強ハイ」みたいな状況に自分を置くことだ。

しかし作品作りでこれをやるととんでもない勘違いがそのままになってどんどん行ってしまうこともある。夜中にハイになって書いたラブレターが朝読むととんでもなく恥ずかしい内容だったりするようなものである。ラブレターを書くことと作品作りの共通点は、ある意味自分の限界を超えたところで取り組むことであって、自分をうまくコントロールできていないととんでもないものになるということだ。

ハイになって作品をつくり、冷静になって恥ずかしい思いをしながらそれを修正し・・・の繰り返しによって作品をつくる、ということは私も演劇の台本を書いているときにはよくあったが、時にはハイなままの状態を読ませて恥ずかしい突込みを大量に受けるという羽目になることもよくあった。

もちろん初稿から稿を重ね、最終稿に至るまでのあいだにいろいろな補強はなされるわけだけど、おそらくこうした造り方だけがよい作り方ではないということは自分にもよくわかる。ハイになるのではなく最初から冷静な状態で書いた方がおそらく良いものが書けると思うのだが、こうした文章ならともかく創作的なものではまだ試したことがないので、そのうち試せたらいいかなとは思った。

作品をつくるプロセスの中で、「自分に注目してくれる人」というのは自分に個人的な関心がある人に限られる、という指摘も自覚しておくべきだなと思った。作品が成功すると「俺は最初からやつに注目していた」「あいつは俺が育てた」みたいな人がわらわらと出てくるので「そうかこの人たちは目のでないころから自分のことに注目してくれていたのだな」みたいな勘違いを起こしやすい、ということだ。つまり、自分が悪戦苦闘している作品づくりのプロセスには、個人的な関心がある人も成功したらほめてくれる人も、誰も注目していない、ということなわけだ。これは実も蓋もない指摘だが、全くその通りだと思うし、だから作品作りは孤独でもあるわけだし、自由でもあるわけだ、と思う。

「アーティストという概念」にはよい面もあるし悪い面もあるが、もともとはそんな概念がなかったのが、「個人」というものが意識されるにつれ、自己証明、つまりアイデンティティになってきた、という指摘も重要だと思った。しかしアーティストであることがアイデンティティになってしまうと、失敗した作品をつくったことは自分の人格に欠けてるところがある失敗作だった、みたいになってしまう可能性があるから、こうした悪循環に陥らない方がいい、という指摘は心しておいた方がいいよなと思う。

まあ私はなんにしても自分の仕事にアイデンティティはもちにくい方だとは思うのだが、自分の仕事に失敗してしまうとそれは自分という人間に欠けたところがあるからだ、みたいなとらえ方に陥ることはしょっちゅうなので、確かにその二つを切り離し、仕事の失敗は仕事の失敗として自分の持っているものでどのように対処していけばいいかと冷静に考えるべきだなと思った。

第1章はそれぞれの内容の大枠を示した内容で、どうも第2章以降はそれぞれのテーマについて掘り下げていく内容のようなのでここですでに総括的な感想を書くのはアレなのかもしれないが、とりあえずは「この本は読む価値があるということが分かった」という意味で、書いておきたいと思う。

***

丸善を出た後さてどこへ行こうかと決めないまま歩いているうちに新丸ビルの成城石井の方に足が向いていたのだが、そういえば丸ビルの内装工事はもう終わったのだろうかという方に関心が移り、行ってみたらかなり店舗配置も出店している店も変わっていて、お弁当も美味しそうなのがあったので後で買おうと思って歩いていたら、3階と4階の以前は確か青山ブックセンターが入っていたところにツタヤとスタバが入っているということを知り、上の階に行ってみた。途中1階の吹き抜けに出るとここは以前と構造が変わっていなかったので懐かしく感じた。

3階と4階のツタヤとスタバの配置は最近よくあるような店の作りだなと思ってみていたのだが、3階には有料で集中できる読書スペースが設置されていた。これは丸善丸の内本店にも「丸善の三階」としてオープンしていて一度入ったことがあるが、最小コストは丸善の方が安いように思ったが一定時間いたときの価格比較はちょっとわからない。ただ余裕のあるスペースで、スタバの商品が好きな人なら割と落ち着けるのではないかと思った。

4階の方は普通のスタバで若い人が密集していてなるほど、この近辺は若者向けのこういうスペースが少ないからちょうどいいのだろうなと思う。二人掛けで同じ方向を向いて座っているのがコロナの後遺症だなと思ったが、自分の必要な本が探しやすいかどうかはともかく、ときどき覗いてみるのは面白いかもしれないな、と思った。

地下に降りて鮭の乗った海苔弁当を買い、家に帰って食べたが海苔の下に明太子が入っていて思ったよりボリュームがあり、美味しかった。

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by Luke Peterson

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