大衆が支える日本文化の独自性を守っていくという意味での「保守」/識者と人格/家制度の中で生かされてきた人たち/特急が遅れたり時間通りになったり

Posted at 23/01/24

1月24日(火)曇り

今日は曇っていて、思ったより寒くない。ただ昼頃から雪になるという予報なので、これから寒くなるのだろう。

昨日は全然眠れないまま朝になって、どうも今は実家での生活時間が長いので東京の自宅に帰ると逆に「枕が変わって」眠れない感じになるのだなと思う。「枕が変わる」というのはいわば象徴で要は「環境が変わる」ということなのだが、実家だと寒いので一晩中石油ストーブをつけているが、東京ではそういう暖房はないので返って寒いとか、実家は広いが自宅の寝室は狭くて圧迫感があるとか、まあそういう微妙な違いが眠りとかには結構関係があるよなあと思ったり。まあ実家でもうまく眠れない時は結構あるんだけど。

ただ昨夜は前夜がほとんど眠れなかったので、実家に戻ってきていたから早めに寝て5時まで寝られたのでベストの眠りとは言えないがまあ最近にしてはしっかり眠れた感じがする。

昨日は朝からそういうわけでぼーっとしていたので「社畜と少女の1800日」とか「ジャイアントキリング」とか自宅に置いてあるマンガをなんとなく読み返したり、伊藤俊治「愛の衣裳」とか野村朋弘「諡」とかを読んだりしていた。一昨日会った人が絵を描く人なのでその影響はかなりあったようで、アートとか美術に対する関心がかなり戻ってきた感じがする。以前は絵描きの友達がいたのでその人から受ける刺激は結構大きかったのだけど、今はその人は音楽の勉強に転向してしまったので自分の中のアート要素がかなり影響を受けてしまったのだなと思う。こういうものはやはり友人関係が大事だなあととても思う。

そういう意味で行っても、自分はやはり音楽よりアートの方が好きなんだなあと改めて思う。この辺、改めて勉強したい気持ちも起こってきた。

昼前に銀行に行ったり地元の新しい大きなスーパーに立ち寄ってお昼の買い物をしたりして返ってきて、午後も基本的には自分が持っている本を読んでいた。3時ごろ時間より早めに実家に移動する準備をして丸の内の丸善で本を見たりお茶をしたりしようと思って出かけて東京駅で帰りに切符を受け取ったら、どうも様子がおかしいので駅員さんやみどりの窓口で聞いてみると、高尾駅で事故があって中央線が大幅に乱れていて、私の乗る予定の特急も東京・新宿間が運休になって新宿始発になったとのこと。

余裕を持って出てきて良かったとも言えるし結局楽しむはずだった余裕がなくなったとも言えるのだが仕方がないので本を見るのは早めに切り上げて駅ナカで弁当を買い、中央線で新宿に出て状況を伺った。特急が停車しているので駅員さんに尋ねると、これは1時間前に出るはずだった特急で、自分が乗る予定だった特急ではないのだが空いてる席に座っていいということだったのでありがたいと思って乗車した。そういう状況ながらいつも乗る特急よりも空いていて、停車駅も少ないので今後はこの特急に乗るという選択肢もありだなと思ったのだが、50分遅れで(つまり自分の予定よりは10分早く)発車して1時間遅れで(つまり本来の自分の予定通りに)実家の駅に到着したのでまあ不幸中の幸いというか災い転じて福となった感はあった。

車中で夕食は済ませてあったので帰ってからはお茶を飲みながら車中で買ったミックスナッツを食べていたら流石に眠くなったので早めに寝た。先に書いたように比較的よく眠れて良かった。

***

先にも書いたが私はアートとかマンガとかそういうものが好きなので、特にそういう文化装置というものを維持したい、守っていきたいと思っているわけだけど、欧米ではアートを支えているのは金持ちとか貴族とかそういう人たちだけど、日本ではそういう層は薄くて、大衆がそれを支えているんだよなと思った。まあ大衆は「オタク」と呼ばれる文化の嗜好の範囲内でマンガやゲームやアニメは好きだがファインアートはそれほどではないのでファインアートをやってる人たちはなかなか大変なのだが、それでもファインアートの分野でもマンガやアニメやゲームなど「オタク的なもの」から「養分」をもらっている人は多く、自覚的にしろ無自覚的にしろその影響は大きいと思う。

村上隆さんなども「マンガ家になれなかったからアーチストになった」と発言していたし、小説家でもマンガから発想した純文学小説なども出てきているわけで、日本においてその影響力は突出していることは間違いない。マンガでも80年代ニューウェーブと言われた世代が民俗学や文化人類学、神話学などアカデミックなものの成果を取り入れたり、今でも最新研究にかなり依拠している歴史マンガ作品も多いのだが、そこでマンガとそれ以外の多くの分野の交流が起こって、時にはマンガの側から他分野に輸出されていることも多くなってきた。これは現代日本文化の大きな特徴だと思う。

大衆文化や社会政策にとってもマンガの重要性は大きくなり、「いらすとや」などが行政分野を席巻したり、町おこしや啓発ポスターにいわゆる「萌え絵」が使われるケースも多くなってきて、それが偏狭なフェミニストと衝突を起こすようになってきたりもしている。それは逆に言えば、マンガの影響力が日本においては文化的にも社会的にもとても大きいという意味でもある。

文化というものは、欧米では一般に金持ちが支えるものであり、つまりはエリートのものであるわけだが、日本においてはそういう金持ちやエリートの層が薄かったりあるいはそういうことに不熱心な人が多いということもあるのか、アートを含めマンガなどの文化を支えるのは大衆の力が大きい、というか大衆自体が文化好き、ということが大きいと思う。

これは何も今に始まった事ではなく、江戸時代から識字率は高かったし、庶民の間で朝顔の品種改良が流行したりして、当然ながらそういうのは欧米では王侯貴族の趣味なので欧米の外交官が仰天したとか、あるいは浮世絵や読本などの流行もまた日本文化の大衆性の強さみたいなものを表しているように思う。そういうものに対する凝り性みたいなところは明治以降も形を変えて受け継がれたように思う。

欧米でも最近は情勢が変わりつつあり、人文系の学部に対する風当たりは強くなっているそうで、むしろ新興国の方が文化に対する需要が高まっているのだという。確かにバレエダンサーやピアニストなども中国出身者が著しく増えているし、そういうことは言えるなと思う。

逆に言えば、明治大正期の日本や20世紀のアメリカでアートや芸術に熱心だったのは、その時期の日本やアメリカが成り上がりの新興国であったということなのだとも言える。

今やアートの中心はパリやロンドンよりもニューヨークだという話もあり、状況は変わってきているが、スポーツを含めて産油国や中国などがそれらに熱心になってきているのはそういう事情もあるだろう。

日本の「おたく」と呼ばれることの多い大衆文化についてはまだまだ正当に評価されていないところが大きいなと改めて思ったのだが、日本において実際の女性の境遇などより「萌え絵」の問題がクローズアップされがちなのは、日本においてそういう文化が突出して強いということでもあるなと思う。だからフェミニストにとっては格好の標的になってしまっているのだろう。

逆に現在起こっているコラボ問題のような事象も、とても日本における独自性が強いと思う。この問題を主導している暇空茜さんの経歴などを読んでいると、このかたは恐らくは学校制度に非適応型のギフテッドであるように思う。マンガやアニメやゲームが好きでゲーム開発で成功を収め、強い意志でトラブルを乗り切ってきた高い能力を持った方がこうした問題に切り込んでいくというのは本当に日本ならではだなと思う。

日本ではこうしたコンテンツは内需も莫大だが輸出産業にもなっているのでそうした流通や各国における法的問題をフォローできるような体制の確保が必要だと思うが、クールジャパンのような補助事業が失敗したのは結局ある種の暇空さんがいうところの「公金チューチューシステム」に取り込まれてしまうということではないかと思う。それを考えると、NPOや広告会社などに委託するより特殊法人などのシステムを使った方がまだ健康なのではないかという気はする。こういうところは何にしても資金管理の問題が起こりがちなので、その辺のところはしっかりやってもらいたいのだが。

町おこしなどについても歴史ロマン?を求めてやってくる程度の軽重はあるにしても歴史おたくの人たちが鍵になるわけだから広義のオタク文化がそうしたものを支えていることは間違いない。温泉むすめなどもまさにそのようなものだったと思うのだが、そうした文化と社会の「やわらかい腹」を突くことで利益を得ようとする社会団体があるのは残念なことだが、彼らもそうした社会に寄生しなければ運動も生活も維持できない人たちは多いわけで、ある種文化の爛熟の結果として仕方ない面もあるのかなという気はする。

ただ寄生虫があまり強いと宿主が死ぬという問題はあるから、なるべく追い払うことは必要だろうと思う。

保守という意味では、こういう日本の大衆文化の伝統を維持していくこともまた、左翼が表現の弾圧側に傾いた現代においては一つの重要な意義ではないかと思う。

***

保守についてもう一つ書いておくと、例えばテレビなどに出てくる「識者」と言われる人たちのなんというか「サブカル化」が著しいという感じがする。自分の仕事、自分の専門分野にどれだけ誇りをもって取り組んでいるのか、と思う。

昔は「保守オヤジ」といえば、西部邁とか大島渚とか、テレビで怒るというより叱りつけるようなキャラクターがあったと思うのだが、私がそういう番組を見なくなったというせいもあるが田原総一朗さんとかがやっててもちょっと荷が重いというかキャラ違いだと思うし、どうも「この人格でこの実績のある人だから信用できる」というような説得力がある人がいなくなってきた。この辺りはテレビの凋落もまたもたらしていると思う。テレビというのはテレビであるだけでネットの報道機関に比べれば権威があるわけだけど、その権威が人格的なものに裏付けられていないので「マスゴミ」呼ばわりされるのだと思う。新聞は活字メディアである分だけマシな面はあるとは思うが。

***

ついでにもう一つ書いておくと、現代では家制度はどんどん解体されていて、家父長制というのもほとんど過去のものになりつつあるが、そういうものによって守られていた人たち、というのも確実にいたことはもっと発言されても良いと思った。

昔はよく分からない居候みたいな人がいたり、仕事ができずにサボってばかりいる下男、みたいな人もいたりしたわけだけど、今ではそういう人たちは結局行政や福祉に繋がるしかなくて、高齢単身男性が多く住む住宅で火事で死んだりしているんだろうなあと思ってしまう。

また、割合財産はあるけど子供がいないという高齢者が、家に籠ったまま財産の整理もできないまま朽ち果てていくような話もよく聞く。昔ならばいろいろ周りが世話をしたり遠縁の人が援助したりしてそれなりに「家」を守るということがあったと思うのだけど、家制度の解体によって本当に更地になってしまっている感がある。

実際のところ、個人が個人としての権利と自由を行使して生きられる人は全人口のどれくらいの割合でいるのかと思うが、一人だと自分で生活するのがやっとだが、「家」があるからその中で役割を発揮して生き生き生きられるというような高齢者もまた多いはずだと思う。

「家」の抑圧的なイメージと作用だけではなく、それに属する人の保護という側面をもっと見直していかないといけないと思うし、また多様化というならば、そういう生き方ができるような相続制度や補助制度も単身者や核家族だけでなく作っていかないといけないと思う。今の制度が核家族中心にできすぎているという批判はその通りなのだが、LGBTだとかそういう問題だけでなく、家族と暮らせることによる高齢者の生きやすさ、それは家庭に職業につかないでも暮らせる人がいられるだけの収入が確保できるだけの支払いがあるということと強い繋がりがあると思うが、そういうものも考えていくべきではないかと思う。

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