「終わりなき日常」と阪神大震災/保守というテーマと日本の統治機構

Posted at 23/01/17

1月17日(火)晴れてきた

1月17日、と書いて思い出したが、今日は阪神大震災の日だ。1995年だから今年で28年。同じ年に起こったオウム真理教事件と並んで、文明が崩壊するというのはこういうことかと思わされた。災害後、多くのボランティアが復旧に協力したことや、オウム事件でも一気に捜査が進んでオウム真理教組織や教団施設が解体されていったことは、まだ日本に底力があるなと感じさせてくれたのだけど、16年後の東日本大震災ではむしろ日本の衰退を強く感じさせられることになった。

世界の終わり、のようなものを感じさせたのは2001年9月11日の同時多発テロだったが、日本はその前後にいくつも巨大災害があって、そういう意味では条件の悪い国だなと改めて思ったが、21世紀に入ってからのテロとの戦いやイラク戦争、シリア内戦、そしてウクライナ戦争と世界においては戦争の危機の方が強く、また思いもよらぬパンデミックなど、文明システムの根幹を揺るがすような事態が次々に起こっている。

昨日と同じような1日が今日も始まる、というのが「終わりなき日常」という言葉に表されていたが、そんなものはいつ終わるかわからない、ということを最初に思い知らせてくれたのが阪神大震災だった。あれから28年。人間の世界はまだなんとかかんとか生きて動いてはいるが、少しでもましな未来はどこにあるのか。

***

保守というテーマをめぐっていろいろと考えることはあるわけだけど、今日は統治機構について。現在の日本の統治機構は日本国憲法に基づいて作られているが、その中には明治憲法下ないしはそれ以前に作られた機構や法律もまだ生きているものはある。外務省は明治2年に設置されているし、会計検査院は明治13年に設置されていて、大日本帝国憲法はもとより内閣制度よりも古い。つまりは官僚制度というものは明治国家の成立とともに形成されてきた歴史を持っているわけでそれだけの伝統はある。学校などになると、江戸幕府の昌平黌を起源の一つに持つ東京大学など、江戸期から続くものも出てくるわけだが。

現在の日本国憲法における国家体制は社会契約論に基づくものであることは中学などでも学ぶわけだが、それ以前の日本は「五箇条の御誓文」の天神地祇との誓いや日本書紀にある天壌無窮の神勅によって日本国を神から委任されたというところの正統性の根拠を求め、これはヨーロッパの王権神授説からの国王主権論の形を借りて天皇主権体制の根拠とした。

江戸時代は中国の中華冊封体制を真似て琉球をある種の冊封国家として扱ったりしていたわけだが、明治になると西欧国際法の原則をいち早く取り入れ、国民国家・主権国家体制の建前を整えた。これは中国皇帝が世界=天下の主人であるとする東アジア世界秩序から脱して「主権国家間の平等」が建前の国際法秩序が日本にとって有利であり現実的であるという判断があったわけだが、西欧列強に「一人前の主権国家」として扱われるようになるまでは苦難の道のりがあった、というのが明治時代史の一つの「語り」になっているわけだ。

曲がりなりにも主権国家・国民国家体制を整えたのち、日清戦争以降の植民地獲得によって日本は「帝国」としての側面も持つようになったが、国家体制そのものの理論としては「国家有機体論」や「法人国家論」が憲法理論としては主流であり、いわゆる「天皇機関説」も「法人国家論」の中の天皇の存在の解釈として出てきたもので、「天皇」という存在も国家の一機関であるという位置付けで、これはいわゆる機関説論争が起こるまでは特に問題視されていなかった。

先に述べたように戦後は「法人国家論」が廃され日本国憲法が「社会契約論」に基づいて組み立てられたので、天皇の地位も「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であって、これは「主権者たる国民の総意に基づく」という形にされた。

同時に基本的人権の原則や法の支配、罪刑法定主義といった基本原則が日本の法体系に確立されたわけで、これらの体系については基本的には国民の間で幅広く支持されていると思う。罪刑法定主義の問題についてはコモンローの原則との関わりで英米一般との違いもあるのだということを書きながら調べていて知ったのでこの辺はもう少し勉強しないとなと思った。

素描に止めるが、こういう日本国憲法体制を主に支持するのは左派勢力で特に皇室や軍備関連の議論で改憲を主張するのが保守勢力、という構図がずっとあったけれども、最近は罪刑法定主義への疑問などが左派勢力から出てきているなど、むしろ右派勢力が日本国憲法を守れと主張する構図になることもある感じだ。

こうした日本の統治機構は明治以降の歴史の中で構築されてきたものだけれども、統治機構のスクラップアンドビルド自体も行財政改革をはじめ様々な形で手をつけられてはいるのだが、必ずしも効果はあげていない感じはする。特に省庁再編の際、財務省設置法で「財政健全化」が書き込まれたことはかなりその後の財政政策を拘束していて、その縛りによって積極的な減税や財政出動ができず、大きなデフレ圧力の要因になっているように思われる。この辺りは新自由主義的な「小さな政府」志向がある種の呪いとなって日本の政策を縛っているように思われる。

日本の社会政策は部落差別問題と在日朝鮮人問題を除いては基本的に貧困問題、低所得者の生活向上が問題とされてきたわけだど、「一億総中流」「頑張った人が報われる社会に」などの時期を境にして累進課税制度が緩められ、金融所得課税が所得税から分離され、基本的に富裕層にとって有利な制度になる一方、社会的弱者や女性に対する支援制度の方に左派政党も政府内の厚生労働省などもシフトしている感がある。こういう状況の中でそれぞれの支援団体が特権化し、公的資金のが流れを握るようになってきたことは様々な団体について指摘されているが、その変化の中で自由、特に「表現の自由」を制限しようという動きが左派側から出てきた、というか強まってきたのはここ十年あまりの新しい傾向だろうと思う。

公的資金による支援が本当に必要なところに使われているかというのは以前から指摘されることの多い難しい問題であるわけだが、受けられる支援が属性によってかなり格差があるという現状を問題視する向きもある。

逆に、そうした支援の不透明さを嫌い、統治機構へのタダ乗り(フリーライド)であると主張し自己責任原則を強く主張する人たちからは、できる限り政府機構を無くそうという考え方も出てきている。これもまた極端な考え方だと思うが、一つの筋は通っているとは言えるのだろう。このように見方によっては捕手に括られる人たちの間でも、統治機構のあり方については様々な考え方はある。

統治機構の一つの義務は国土の防衛であるわけだが、災害からの防衛や疫病の対策もかなり大変ではある一方、ウクライナ戦争など予想外の事態が起こり、台湾有事の危険性も現実的に叫ばれている現在、軍事的な面での防衛も避けては通れない。この辺りは日本国憲法前文にある「国際法を守る国際世界」の側に立って戦うことしか可能性としては考えにくいと思うが、異なる意見もなくはない。しかし大きな意味で国家の存在が国民を守っているわけだし、それをどう支えるかというのは大きな問題だろう。

統治機構の問題は一度に扱うには大きすぎると書きながら思ったが、とりあえず素描程度として描いておきたいと思う。


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by Luke Peterson

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