「山県有朋」を読んでいる:慎重で権力欲の強い政治家の栄光と悲しみ

Posted at 22/10/19

10月19日(水)晴れ

いろいろと考えていたりしたのだが、昨日はブログを書き上げてから床屋に行ったのだけど少し時間が遅かったので予約が入っているから遅くなると言われ、結局やめにした。今日行けるといいのだが、その他の仕事の片付き具合によるという感じだ。


返却期限が迫っているということもあり、岡義武「山県有朋」(岩波文庫)を読んでいた。昨日読んだのは第二次山縣内閣が総辞職する1900年の秋から第二次大隈内閣が総辞職する1916年までの間の部分。ページで言えば112ページから190ページの間だ。この間には安倍元総理の国葬における菅前総理の弔辞で触れられ、この本が広く世間に知られるきっかけになった伊藤博文の暗殺の時に山縣が詠んだ歌について触れられたページがあり、ここから先は安倍さんは読めなかったのかなと思うと悲しみを新たにするところがあるわけだけど、実際のところ日英同盟から日露戦争、伊藤暗殺から朝鮮併合、また第一次世界大戦と大きな出来事がいくつも起こった時期でもある。

今読んでいて気づいたが、この本においては(少なくとも今まで読んだ限りでは)山縣の朝鮮併合についての姿勢については間接的にしか触れられていない。それは意識的なのかどうかはわからない。ただ、伊藤が朝鮮を日本の勢力圏内に、満洲はロシアの勢力圏内にといういわゆる満韓交換論の立場からロシアとの同盟を模索していたのに対し、山縣は熱心な日英同盟論の立場に立ち、伊藤がロシアに出張している間に日英同盟が成立して伊藤は憤懣やる方なく帰国した、という話はこの二人の関係のようなものが描かれていて面白いなと思った。

保守強硬派の山縣がアングロ・サクソンとの同盟の立場に立ち、進歩派の伊藤がロシアとの同盟を模索するというのはへえっとは思うが、考えてみると2022年の現在も保守派・現実派はウクライナ寄り・英米寄りが多く、左翼はロシア寄りが多いという構図になっていて、120年経っても構図が同じなのだなと思った。

山縣の政党対応、特に政友会成立後の対応は原敬の伝記を読んだ時に敵方として山縣が頻出していたのでこういう感じだよなと思いながら読んでいたが、この暑中にも「原敬日記」がよく引用されているのである意味二重に読んでいるような感じがする。山縣は自分の確信が持てることは手段を選ばず実現させるが、国際関係など自分の見通しが通るかどうかわからないところは慎重で、万が一うまくいかない時の保険とかをしっかり考えているので、それで親英米的な立場をとったということのようなので、そうなると当時も英米側についていれば大きな失敗はない、という意識があったということなのだろうなと思う。

この辺りの慎重さ、というか最悪のことを考えて行動するという姿勢が民衆運動や社会主義運動に対する憂慮においては原敬に見透かされていて、政党問題や貴族院問題に関しても原は最悪の事態を説いて山縣を脅すことによって次善の策として政党に有利な、また原の考えている政策に賛成させる誘導をよく行なっていたようで、この辺の虚々実々の駆け引きが原について読んだ時も面白かったのだが今回もまた触れられていた。

このように原敬が実質的に政友会を率い、いわば山縣と同じ土俵に乗って相撲をとって、だんだん山縣のある意味での信頼を勝ち取っていく一方で、大隈内閣で与党になった立憲同志会の外相・加藤高明は元老に政策を伝えずに独断で外交を進め、山縣の憤激を買うという展開になったのも興味深い。山縣は官僚組織に対する政党の容喙を防ぐために文官任用令を改正して官僚機構の政治的独立性を確保したわけだが、逆に三菱の女婿の立場から外交官になった加藤のコントロールに苦しむという状況になり、慎重派の山縣から見ればかなり無謀な外交も展開していたようで、特に対華二十一箇条については激しく対立したようだ。

山縣は幕末以来の経験から、世界情勢を帝国主義国同士の勢力争いと捉えていて、第一次世界大戦の終結後は再び西力東漸の動きが起こり、日本は再び脅かされるかもしれないと考え、アメリカを敵に回さないことと袁世凱の中華民国政権との関係を良好に保つことを考えていたので、露骨に侵略的な二十一箇条要求については強い懸念を持っていたということのようだ。

今から見るとこの山縣の懸念は妥当であるように思われる。しかし山縣自身が満洲における権益については中国やロシアと交渉して認めさせる必要があるとは考えていたので完全に中国寄りとは言えないが、三国干渉によって日本の帝国主義的発展を妨害されたと考える加藤のような世代にとっては、第一次大戦中の列強の目が届かない今こそが日本の帝国主義的発展にとって千歳一遇のチャンスと思われただろうし、世代間の認識ギャップのようなものはあったのだろうなと思う。

結局加藤らによるこのある意味無邪気な「帝国主義的発展志向」と山縣による「日本の生存についての最低限の安全確保」の外交思想の対立が、古臭い懸念と追い払われてしまったところに後難の原因があると今ではわかるわけだが、山縣自身も衰えてきていたということもあり、抑えを聞かせきれず、また山縣が育てた人材が自分と違う意見を持つことを嫌っていたので桂も山縣から離れて最終的には先に死んでしまい、結局政敵であるはずの原を一番の頼りにするようになるという顛末がこうしたパーソナリティの権力者の哀しみなのだなという気がした。

山縣はいくつも庭園を残していて、よく知られているのが東京目白の椿山荘であるわけなのだが、小田原や京都にも彼の作った庭園はあったようだ。これは功成り名遂げた山縣の栄光の側面でもあるわけだが、直前に亡くなった大隈の大賑わいの国葬に比べて山縣の国葬は寂しいものだったらしく、山縣の深謀遠慮のプラスの側面というものはなかなか評価され難いものではあったのだなと改めて思う。









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by Luke Peterson

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