伊勢氏が北条氏を名乗ることの挑戦的な意味/内面的な矜持と外面的な矜持

Posted at 22/07/23

7月23日(土)晴れ

今朝は朝からよく晴れている。目が覚めたのは4時ごろだったが、なぜかわからないが起きる前からずっと北条時行とその後裔と言われる横井氏、それから後北条氏の氏綱の室となった養珠院までのつながりについて頭の中で考えていた。いずれにしても確かな史料のないことなのでよくわからないのだが、時行が処刑されたとされているのが1353年、養珠院の子である北条氏康が生まれるのが1515年なので、150年以上の空白があるわけで、そういうのはどういう史料があるのだろうなあとまあわからない分野の話だからいつか調べられるといいな、くらいのことしか言えないのだが。

まあそういう意味でいうと「逃げ上手の若君」の主人公北条時行と「新九郎、奔る!」の主人公の北条早雲=伊勢盛時の間の空白を埋める、というような話になるわけだけど、間には南北朝時代と室町幕府の盛期がある。

しかし考えてみると室町時代後期=戦国時代の関東において「北条」を、つまり鎌倉幕府滅亡後も足利家と戦い続けた北条時行の子孫との関係を理由に北条氏を名乗るということは、かなり挑戦的なことであったということになる。これは今まであまり考えてなかったのだけど。Wikipediaによれば氏綱が北条に姓を改めることは朝廷の許しを得、その後は執権北条家に倣って従五位下左京大夫に任官しているとのことだから、今川・武田・上杉と同等の家格を獲得したということで、「他国の凶徒」と言われた後北条氏が関東に地盤を築く大きな一歩になったというか、要は本気で張り合っていく、張り合うためには手段を選ばない、ということなのだろう。伊勢氏の本家の伊勢貞宗は従四位下兵庫頭なのでそちらの家格と比べてもまあそんなものかという感じではあるが、伊勢氏は幕府の政所執事であるから、北条改姓後は本家との関係はどうなったのだろうかとか、いろいろ考えたりもした。

***

朝起きて家の周りの細かいところの草取りを少しして、朝の光の中で木をみたら今まで気がつかなかった葉の美しさに気がついて、これを植えた自分の祖先は数十年後に子孫を感動させたということをどう思うかな、とか思ったりした。ここには父がプレハブの書庫を建てているのでそれを作る前はどのような庭だったのかよくわからないのだけど、お金と余裕があったら茶室を建てられたらきっと気持ちのいい空間になるだろうなとは思った。まあ妄想の域なのだが。

6時ごろ家を出て幾つか用事をしてガソリンも入れて帰ってきたのだが、運転しながらもいろいろと考えていた。自分は人付き合いとかはそんなに得意な方ではない、というかあまり重視しないできているところがあるのだけど、自分がどうありたいかとか、内面に関してだけでなく外面に関しても、というか特に「姿勢」ということに関して思うところはあるなとようなく思うようになった感じだ。本来なら「四十を超えたら男は自分の顔に責任を持て」というリンカーンの言葉通り、もっと早くからそういう外面的な矜持のようなものをちゃんと持たないといけないと思うのだが、内面信仰というか内側から滲み出すものがあればそれでいいだろうくらいに考えていたところはあった。演劇をやっていたから自分の見せ方のようなもの、外貌とか振る舞いとかについては20代から考えてはいたけれども、なんのために何を見せるのかとかはあまりちゃんと意識していなかったなと思う。

まあ人生の残り時間はそんなにめちゃくちゃたくさんあるわけではないが、自分なりに納得して生きられるようにいろいろやっていきたいと思った。

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