毒のある世界/人間としての美しい在り方

Posted at 22/05/06

5月6日(金)晴れ

気持ちいいような澄み渡った空ではないのだが、一応雲はない、みたいな空。今年の連休はなんだかいろいろあったが、まあぼちぼちやろう。

今朝は母を病院に連れていく日なので、あまり時間がないので手短に。

ウクライナ関係、ロシア軍関係、NATO関係の本などそれぞれ読み進めているのだが、まだ読みこなしていると言えるほどのところまで来ていない。ただ言えるのは、ロシアというのは我々の常識が通用する社会・世界・国家ではないということが改めて痛感させられる、みたいな感じがある。

ソ連は1989年から1991年にかけて崩壊し、もうそんなに大きな影響力を持つことはないだろうという感じがあったこともあり、またすごく単純に「民主化」されたと思ったいたところもあって、そんなにしっかり研究してこなかったところが私にはあるのだけど、多分それは私だけではなかったのだなと思う。中国というおかしな国についても最近読んだ福島亮太さんの本でだいぶわかった感じ(自分の中で)があったが、ロシアもまたその論理構築の独自性というか独善性というものがまたある種の毒性があるもので、世界はこういうものに満ちているんだなあと改めて思う。

もちろん日本には日本なりの毒があり、「鎌倉殿の13人」などを見ているとその毒の原型みたいなものの一つがこの時代に作られているんだろうなあというようなことを思ったりもする。またアメリカもリベラル派にはリベラル派の、保守派には保守派の毒性というものがあり、まあその辺も用心して読まないと毒に当てられる感じはある。日本でも過激なフェミニズムなど毒性の強い(?)思想が社会に波紋を広げているが、世界はそのような毒を持った考え方はたくさんあるのだということを見てくると、それもまた特別というよりは、One of themなのだなと思えてきたりする。ひどいことはひどいがまあひどいものは他にもたくさんあるというような話だが、それでも相対化できることは良いことだろうと思う。

こういう世界の中で自分の理想を追求するというのは困難な話ではあるのだけど、逆に言えばそれだからこそやる意味がある、というようなこともあるだろう。

少し話外れるが、「私は」「私が」という思考は「我執」というか、自分に囚われて周りが見えにくくなるからなるべく「自分を外して」考える方がいいというような考え方が自分の中にあるのだけど、今日家の庭を見ながら、「自分の庭」「自分の家」というように考えてみる、捉えてみることで自分自身の責任感というか主体性みたいなものがハッキリさせられるという面もあるのだなと考えたりした。

世の中には「自分の利益や考え方に囚われてばかりいるくせに無責任で主体性がない」、みたいな人が結構いることがTwitterを見ていても思うが、つまり「人格の陶冶」というのはそれを逆にしていくこと、「自分の利益については中立性を持って考えられるが、自分が対処すべきことと見極めたら主体性を持って行動する」、みたいな自分のあり方を涵養し、確立していくことが人間としての美しい在り方なんじゃないかなと思ったりした。そういう考え方がどういう文脈のどういう考え方から来ているのかはまた考えてみないとわからないけれども。


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