鎌倉幕府の教養人たち

Posted at 22/04/19

4月19日(火)曇り

昨日は一日雨で、特に午後は強い降りになった。母を歯医者に連れていく予定だったのだが、この雨で延期。キャンセルがあったとのことで今日予約が取れたので、午後に連れていく。なんとかなってよかった。

昨日は休みだったのだがいろいろやることがあり、7時に郵便物を受け取ってご飯を食べたらなんだか疲れが出てしまい、8時半に寝た。起きたら3時前だったのだが6時間は寝たことになる。あまり寝付けなかったので風呂に入って髪を洗い、爪を切ったりしてから少し寝たが、結局5時過ぎには起き出した。色々なことがあって休日の間に疲れを取ると言うことがなかなかできない。今週もぼちぼちやるしかない。

日曜日に買った「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか」を読み始めたのだが、知らないことをググったりしながら読んでいると、いろいろと面白い。基本的に北条高時政権の成立から読んでいるわけだけど、得宗以外の執権について、「時宗・高時・邦時が幼かったため」と明示してくれてあったのはよく納得できた。

北条家で執権についた順で言えば、1時政2義時3泰時4経時5時頼[6長時7政村]8時宗9貞時[10師時11宗宣12煕時13基時]14高時[15貞顕16守時]となるが、特に高時の前の4代は師時が10年やっている以外は皆短期で交代している。その他の時は比較的長期の場合もあるのだが、いずれにしても本来の執権は得宗家、と言う意識は強くあったのだなと思う。

割合へえっとと思ったのは、後期の鎌倉の有力者たちは皆教養人であって、例えば北条高時政権で内管領の長崎高資が後醍醐天皇勅撰の「続後拾遺和歌集」に歌を選ばれているのだという。それを少し調べてみると、本来六位の御内人は選ばれないと言う不文律、また貞時による被官の入首の禁止にも違反しているといい、これは御内人の勢力伸長とも言えるが、後醍醐天皇による旧弊の打破みたいな意味もあったのではないかと思った。

当時の歌壇は京極派と二条派に分かれ、この和歌集は二条派の集大成であったが京極派の花園上皇からは批判されていたという。和歌の内容はよくわからないが、歌壇も政治絡みであることがよくわかるし、足利尊氏もこの勅撰集に一首入っているとのこと(載せてもらうよう懇願したらしい)で、後期鎌倉政権の印象が少し変わった。

もともと北条氏一門でも金沢家は金沢文庫を作ったり強要人のイメージがあったが、執権・連署クラスだけでなく御内人などもそう言うふうになって行ったのだなと。

執権クラスであっても身分は四位か五位なのだが、これは鎌倉幕府という鎌倉殿のいわば家政機関が全国を仕切ることになったので、摂関家の政所執事の地位などと比較してこのくらいの地位になったと言うことなのだなと思う。幕府の役人の官位の意味ももう少し見ていかないといけないなと思う。

***

ウクライナ東部へのロシア軍の総攻撃がついに始まったと言う話もあり、いろいろと予断を許さないが、犠牲の少ないことと1日も早いロシア軍の撤退を祈りつつ、やるべきことをやっていくしかないなと思う。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday