「資本主義の新しい形」を読み始めた:「資本主義の非物質主義的転回」についてどう考えるか

Posted at 22/01/25

1月25日(火)晴れ

ITの歴史について勉強しているうちに何のためにそれをやっているのかわからなくなってきたので、本丸である「情報資本主義」についてちゃんと考えようと思い、後回しにしていた諸富徹「資本主義の新しい形」(岩波書店、2020)を読み始めた。

とりあえず「はしがき」に書いてあることをまとめてみる。

この本での基本的なテーゼは「資本主義は構造変化している」ということから始まるわけだけれども、それは単なる「デジタル化」ではなく、またここ20年ほどのことでもなく、1970年代以降という長期スパンに渡っての変化であり、「資本主義の非物質主義的転回」とでも呼ぶべきものである、というものである。そして、その転回に日本企業は、また経済界の全体が「ついていけていない」ということが日本経済不調の原因であるとするわけである。

しかしその転回が「望ましい変化」であるかについては議論の余地があるわけだが、著者は「そのように「する」ことは可能」であるとする。というのは、「モノ」の生産が人々の所得を押し上げ、生活の利便を向上させてきたわけだが、「モノ」から「コト」へと消費の焦点が移ることによって、無駄な「モノ」の生産がなくなり、生活の利便を減退させずに環境負荷を減らして「資本主義を持続可能で公正な」ものにすることができる、という主張なわけである。

生産を減らして持続可能な社会を、というと上野千鶴子氏が主張していたように「みんな平等に貧しくなればいい」というような主張、「電気を使わなくても快適に暮らせる」という元朝日新聞記者のような主張になりがちだが、つまりは「必要なものはITを駆使してシェアし合う」というような発想で生産を減らしても大丈夫だ、ということになるのだろう。

確かに、今までの資本主義では「モノを所有することがステータス」でもあった。つまり「高価な消費財」は物神化して社会秩序の構成に組み込まれていたわけだけれども、そこを最小限に抑えようという動きはさまざまなところで出ていることは理解できる。

また、それがうまくいけば環境負荷を減らし、地球温暖化の進展を抑えることで毎年恒例になってしまった大規模な風水害をこれ以上悪化させないことも可能になるかもしれないし、それによって受ける、つまり「風水害による甚大な被害によって成長が阻害される可能性」を抑えることは意味のないことではないと思う。

一方で、「社会的公正」ということについては著者は新自由主義の進展による「経済格差の拡大」に対し危惧を表明している。つまり、「資本主義の非物質的転回」を「公正さ」に結びつけなければいけないとする。それについては、市場と国家の関係を変化させて「社会的投資国家」への道を歩まなければならないとするわけだが、これはつまり「人的資源への投資を拡大すべき」ということのようだ。

この方の主張は概ね私の考えていることに近く、かなりの部分は賛同できるし、また必ずしも賛同できないところもその理路自体は理解できる。フェミ対反フェミの妄想的な激論を読んだ後ではやっとまともな人の話を聞いているような安心感はある。

議論のコアになるのは、また吟味すべきなのは「資本主義の非物質的転回」ということの実態とそれに対する評価、またそれが抗えないものならばそれに個人レベル・企業レベル・国家レベル(ないしは人類レベル)でどう対処していくのか、ということになるだろう。

とりあえずそのあたりのことを読み取って考察していきたいと思う。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday