多様性と分裂と統合

Posted at 21/10/28

多様性と分裂と統合についてちょっと書こうと思ったのは、谷口雄太「分裂と統合で読む日本中世史」(山川出版社、2021)を読もうと思ったからなのだが、書こうと思って考え始めると、この問題について自分が実はあまり深く考えてこなかったことに気がついた。
分裂と統合で読む 日本中世史
谷口 雄太
山川出版社
2021-09-02



 

私は基本的には自由を重視する考え方だし、ただその中で我々自身(個人・家族・血縁共同体・地縁共同体・自治体・民族・国家・人類)の文化とかその伝統みたいなものを引き継ぎ、また発展させて行けると良いと思うという意味で「保守」のスタンスだし、そうしたものを守るための最低限の防衛力は持つべきで、それを守るための外交手段の中には防衛力もまた含まれると考えるスタンスだ。そしてその社会を回す経済的機構はある程度は国家のような政策を行える存在が調整したほうがいいという考えで、まあ理想としては「大きすぎも小さすぎもしないいい感じの国家」くらいがいいのではないかと思う。

現在は小さい国家・自力救済に傾きすぎだと思うので、日本の経済力・生産力があるうちに国民の疲弊した部分を回復させるだけの政策は打った方がいいと思っている。

人は自由であれば多様ではあるので、その多様性をどのように統合するかは重要な問題で、少数者が排除ないし抑圧という形で統合される場合もあれば異なる点を軸に対立関係になる場合もあり、それが分裂と呼ばれる状態になるわけだろう。政治権力は上に述べたように基本的に必要であるとは思うが、多様なものをどう統合するかは常に問題が含まれている。

現在は国家が教育をほぼ一元的に管理しているが、これは近代国家の特徴であり、共同体は本来はその再生産機構である教育を自前で調達していた。教育を通しての統合というのは国民を労働力と戦力としての役割を担わせるために必要なことであった。そういう意味で学校教育は国家を志向するものであって、共同体は中間団体として学校教育からは外れている。だからそれとは別に共同体の行事や共同作業を通じて血縁共同体や村落共同体は育成されてきて、また現在では会社などの機能集団が擬似的な共同体としてその共同体の成員としての教育が担わされている。

学校教育が会社に役立つ人材を育てるために有効な教育を行うべきだという考え方は一部の企業の考え方を国民全体に押し付けることで本来国家がなすべきことではないのだが、経済不振の慢性化によって逆にそれに責任があるはずの企業体の発言力が高まっているという矛盾した事態になっている。

地方分権の推進は本来地方の多様性を生かすためのものだったはずだが、現状は守るべき多様性はそんなに守られず本来の国家の役割であったはずの地域間格差の是正についてはむしろそれを拡大させる方向に働いている。制度を作る中央官僚にとっては基本的に多様性はバグに感じられるわけで、その地域独自の論理などで動いていると懲罰的に補助金を減らすなどの権力的なやり方によってむしろ抑圧が強まるようなこともままある。

多様性というのは言葉で言うのは容易いが、多様とは多様と言うことなので(進次郎構文)、その多様さを把握するには原理的思考ではなく博物学的な観察と記録が最も重要になるはずなのだが、日本の官僚制度はそのような方向性をあまり持っていないように思う。

多様性というなら少なくとも数個の勢力に分かれるわけだが、それぞれの集団が小さければ対立というほどの大きな軋轢にはなりにくいけれども、その諸勢力が結集されると大きな対立が生まれることがある。だから対立というのはそのものが大きな統合のための過程とも言える面があるわけだけど、統合によって対立が激化することもあるので(イエメンなどはそうだ)そんな簡単なものでもない。

人々がなるべく自由に多様なままに生活水準の底上げができ災害にも強い体制を作り、無用な対立で生命の危機に晒されないような政治経済社会が望ましいと思うけれども、そのためには教育や生活水準の面である程度のスタンダードを設ける必要もあるわけで、それらの折り合いをつけることはなかなかうまくいっていないなあと思う。

どういう社会においても、今までの歴史の中で分裂と統合を繰り返し、諸勢力の盛衰もあるし、またその中でお互いに折り合いをつけながら(妥協しながら)進んできているところは大きい。それは国によってまちまちであって、例えばフランスは宗教(カトリック)と国家の間に「世俗主義」という形での妥協が成立しているわけで、その状況の中に多くのムスリムが入ってきたときに、フランスという存在はムスリムに対しても世俗主義を適用しようとするわけだ。そこが争いの本質なのだが、ムスリムが自らの主張を貫き世俗主義を変えようとすれば今までついていた折り合いが破壊されることになるから、一致してムスリムを排除することになるし、部分的にでもそれを受け入れたら再び国家とカトリック教会の間の争いが再燃することも十分にあり得るわけである。

歴史的文脈によって諸勢力間の分裂が妥協することによって統合が実現している場合、新しい勢力がそこに入っていくのは非常に困難になる。アメリカでも、黒人は差別されてきたから権利を認めようという形で白人と黒人の妥協が成立したときに、アジア系はどちらに入るかということになり、再び成立したはずの妥協が揺らいでしまうから、逆に黒人の側がアジア系を差別するということにもなる。歴史的過程において新参者は先行者特権を持っている集団に比べて不利になるのはどんな国においてもそうだろう。

谷口氏の著作がどういうスタンスで書かれているのかも含めて、読んでいきたいと思う。

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