東洋の智慧と西洋の論理:有限だからこそ無限、無限だからこそ有限

Posted at 21/07/08

レンマ的知性とロゴス的知性について考えていたのだけど、ヨーロッパで自然は神が書いた本であり、人間は知性によってそれを読んでいく、というような考え方があるけど、レンマ的な全体を同時に把握するような知性は神のものであると考え、それは神に任せておけばいいとして人間はロゴス的な言語の論理によって自然を解明していくことのみが人間の使命であるとした、と考えたのかなと思った。

インドとそれを受け継いだ仏教世界では人間は修行によって般若=智慧を得ることができ、真理を知ることができると考えて、つまりは人間が能動的に世界を全体的に把握してその動きを眺めていく感じが「東洋的」な感じがあるわけだけど、ヨーロッパは分析的な知性でわかったことを全て人間が自然を自分たちが暮らしやすいように変えていく方向に進んだ。

確か小室直樹だったか、東洋のそういう哲学が自然科学の発展を阻み、それが東洋が西洋に圧迫される原因になったということを言ってたのだけど、宗教的にもロゴス的な論理に限定された西洋ではそれを抑えるものがなかったということも大きいのかなと思う。

日本などではロゴス的な発展はそれはそれで受け入れるけど、「それで本当にいいのか?」という問いが繰り返し起こってきて、思想界では常にそれが大きな力を持つ。のは、ロゴス的な論理では把握できなことが世界には存在する、ということをほとんどの人が「常識的に」知っていたからだろうと思う。

ただこのままで考えるとレンマ的なものはそれ独自の発展性を持つというよりもロゴス的なものの進む方向性を多少調整するというような、割と補助的・間接的な役割になる感じがするが、それはそれでいいんだろうかとも思う。

ただ、人間の知の可能性を徹底的に信じているのが実は東洋的な思想であり、知の可能性はロゴス的なものであるという限界を自ら設けてそこは人間の分に甘んじようとするのが西洋的な知性であるというのは、ちょっと逆説的で面白いなと思った。

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