近頃何かと話題の社会学について考えてみた。

Posted at 21/02/03

最近何かと話題の社会学について。

最近ネット上では何かと社会学が話題になっている。社会学という学問に対して風当たりが強い。当の社会学者たちはそれに対し、自己分析をしたりするわけでもなく完全に反発して反論している人がほとんどだが、反論すればするほど火に油を注ぐ状態になっているように思う。

もともと社会学とはどういう学問だったのか、あるいはどうあるべきなのか。これは逆に言えば社会学というある種の共同体の中にいる人たちにはわかりにくいことかもしれないので、私なりにちょっと考えてみた。今回は素描程度だが、時間のある時にもっとゆっくり書いてみたい。

社会学者自身の言葉をまず引用してみよう。鈴木謙介氏のサイトからだが、

「社会学とは、「異なる価値観をもった人間たちが多数集まって形成されるこの社会を解き明かす学問」である。」とある。

https://blog.szk.cc/2020/09/16/what-does-sociology-do/

これにはさらに引用元があって、日本社会学会の「社会学の世界へようこそ」、ではこのように書いている。

https://jss-sociology.org/school/

もし社会学がこれだけのことをする学問であったなら、そんなに社会学が非難されることはないだろう。しかし社会学者自身の考え方として、

「社会学は「社会がどうなっているか」について記述するだけでなく、「どういう社会であるべきか」について一定の価値判断をして、それを示す(強制はしないけど)という役割も担う。その程度は社会学者によって違うけれど、「私は調べただけなので、それの意味するところには関知しません」というのでは、文字通り「調べる意味のない調査」ということになるだろう。」

と主張している。「価値判断を示す」ところまでなら理解できる、というか調査結果を「評価する」ということは当然なので、そこまではいいが、そこから先が問題になるのだと思う。

ただ、鈴木氏がサイトで評価する社会学の研究は、「そこから先」のことではなく、「そこまで」のことについてであり、以下の文章を読んでも彼として言いたいことはわかる。

https://blog.szk.cc/2021/02/01/what-does-sociology-do-part2/

この中でも基本的に上から目線であり、彼自身の思想(彼自身が「良かれ」と思うこと)や姿勢について検証しようという姿勢(彼自身の「良かれ」とたとえばトランプ主義者の「良かれ」を双方とも価値中立的にみるという視線)が感じられないという点はあるけれども、そこに立った上では大変誠実に書かれていると思う。

実際に社会学が炎上し、攻撃されているのは鈴木氏があげている上記のような研究ではないだろう。

社会について違和感を感じた時、人はそれが自分自身、個人に問題があるのか、あるいは社会に問題があるのかなどいろいろ考えるだろう。そしていろいろ調べたりする。多くの人は余裕がないからそれは自分の問題だと考え、自分でなんとかしようとするか自分の周囲の人や公的な制度等に頼ってなんとかしようとするわけだが、いろいろ考えた結果社会に問題がある(政府に問題がある、経済制度に問題がある、etc.)と考えた人たちはそれについて調べなければと思うだろう。

政府の仕組みや経済に問題があると考えればそれぞれその方向で考えるが、社会に問題があると思った人たちの中で、「社会学」に関心を持つ人がいるのだろうと思う。

そして鈴木氏がいうような社会の実態について調べた研究を読む中で、それぞれ社会についての考え方ができていく。私もこういう研究やルポルタージュを読むことはよくあるし、鈴木氏が示した研究も興味深いものがいろいろあるとは思う。

ただ、「研究」より「ルポルタージュ」の方が面白いと思うのは、ルポの方が調査者である著者自身が動揺したり、いろいろと考え方が変わって行ったり、調査対象に対して共感したりしていくプロセスがあり、それでも取り込まれないようにしようとする自我の動きとか、そういうものが大変迫真で、だからこそその調査対象がなぜそのようになっているのかも実感することができるわけだが、研究というものは研究者のスタンスそのもの(たとえばリベラリズムを信奉しているとか)が基本は影響を受けないので、そのあたりで興味は半減するわけである。

私自身としては、「研究する中で様々なものに影響され、自分自身の考え方も変わり、さらにより大きな視点でものを見られるようになる」というような変化がなければ、研究する意味がないと思う。

本来ならば虚心坦懐に社会を調査し、先例を調べ、先賢の研究も踏まえた上で、今なぜ社会がこうなっているのかを探究した上で、この社会をどうしたらいいのか、どうあるべきなのかを考えるというプロセスがあると思うが、それ以前にすでに「社会はこうあるべき!」というのが研究者の中で決まっている例が非常に多いように思う。というか例外はあまり見たことがない。

「社会学」というプロセスを通るとなぜか人は判を押したようにフェミニストになり、リベラリストになり、エコロジストになる。もっと進めばマルキストになったりヴィーガンになったりする。社会学者でも天皇制支持の人がいてもいいと思うし、右翼的な考えを持つ人がいてもいいと思うが、そうはならない。

そうして、「すでに決定済み」「検定済み」の思想を持って「こうあるべき!」と決めつけた社会を実現するために動いている社会学者が実に多く、それに対して人々は違和感を覚え、彼らの発言が炎上し、攻撃されているのだと思う。

そしてまた、社会調査の結果が「こうあるべき」であるという理想と異なる場合、平然と無視し、あるいはその発表を妨害し、否定し、攻撃する。上野千鶴子氏が「不利なデータには触れない」とし、古市憲寿氏に対して「あんたは甘い、社会学者として鍛えなければならない」みたいなことを言うのは、要は「社会調査とは社会の実態を知るための手段ではなく、自分が理想とする社会を実現するための手段である」と考えているからだろう。

当然ながら、様々な調査の結果に基づいて政府が政策を打つ時にも、方針を決めてからさらに追加調査を行うことはある。そうすると、様々な不都合な事実が見つかることもままある。政府がやる場合でもそう言う結果を表に出さないようにしたりすることは話を聞いてると多々あるようには思われるが、社会学者も結局は同じことをしているわけだ。不都合な事実は不都合な事実として記録し、さらに追加してそれをどう扱うべきか検討していったほうが結果として良いものができるのは間違いないはずだが、政府は反対を恐れたり予算の関係などもあってそこを誤魔化すし、社会学者は自分たちの主張が覆されかねないものを妨害すると言うことになっているわけだ。

そう言う意味で、政府の官僚も社会学者など社会にアンチテーゼを唱える人たちも結局は同じ穴のムジナであるという部分があるわけだ。つまり、自分たちが出した「結論」に「異を唱える」のは「わかっていない」「勉強不足」であるからであり、そう言う人々は「愚民」であるから、「相手にするに及ばない」と言う態度が共通しているわけである。そういう人々をつまり、「エリート」と呼ぶわけである。

現在の社会の対立の基軸が、こうした意味での「エリート」と「愚民」の対立になっているのは、エマニュエル=トッドなども言うところであり(まあ彼はそう言う言い方はしないが)、最終的には「エリート」が「考え方を変え」ない限り、この対立がなくなることはないだろう。

つまり、今一番必要なのは、「エリート改革」なのだと思う。ただ、そこで「エリート」に「愚民」がとって代わればいいと言うものではないし、またそれが起こった結果の惨状も世界には例は多いわけで、エリートでも愚民でもない「市民(仮)」がいかに形成されていくべきかと言うことが、課題なのだろうと思う。

とりあえず今日はここまで。

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