「「中国」の形成」を読んだ:日本と中国の根本的な違いなど

Posted at 20/07/28

昨日は朝、散歩をしていてヌルッとした路面で急いで歩いたため、滑って転んでしまった。足首から脛のあたりをひねったようで、うまく歩けなかった。これも天罰というのかあるいは天の配剤というのか、ちょっとこの所で歩きすぎていたのでそれを少しセーブしろということだなと思い、出かけるより買い溜めてあった本を読むことにした。
Twitterのタイムライン上でいろいろ話題になっていた岡本隆司「シリーズ中国の歴史5 「中国」の形成 現代への展望」(岩波新書、2020)だが、この本はとても面白かった。この本を読めば中国の近世近代現代史が全てわかる、という本ではないが(もともと新書で420年間を総説するのは無理だ)、ある程度の前提知識を持って読めばかなり面白く、刺激的だと思う。中国と日本と世界について、「今の世界がなぜこうなっているのか」ということがかなり実感を持って理解できる感じがする。

清朝は明朝の支配の上に乗っかっただけ、というか中国本土だけでなくモンゴルやチベット、新疆においても在地の既成の社会関係の上に支配者として乗っかっただけだ、という指摘がなるほどと思い、いろいろと清朝独自の税法の改革などもあったが貨幣制度についても統一されていないだけでなく、社会の広い層には全然浸透できていなくて、地域社会・職域社会と政府をつなぐ郷紳の存在によって辛うじて支配を成し遂げていたというのはよくわかった。

そういう意味では古代の秦の時代の貨幣制度や度量衡の統一、一元的な支配のイメージで明や清を見たら全く間違っているということになる。我々東洋史、中国史に疎いものから見れば、一度達成できたものは維持し続けられていると思ってしまいがちだが、明や清の社会は古代に達成されたものとは全く違う社会だったのだとよくわかった。

日本の場合は幕府政権はお節介なくらいに他藩や庶民に干渉してくる政権だったわけで、同じ前近代と言っても中国は全然違う。「前近代なのだから、そんなに変わらないんだろう」というイメージがなかなか払拭できないでいたのだが、この本を読んで全く違う社会だったのだということがよくわかった。

日本は五人組や宗門改によってかなり隅々まで個人は掌握されていたわけで、死闘も原則的には禁止され、紛争解決は訴訟しかなかったから、町奉行・勘定奉行・代官・各藩庁などはそれなりにしっかりと庶民の実態を把握していたと考えられるが、中国では郷紳らを中心とした宗族や幇や会などの中間団体を通してしか庶民を把握できず、それらの中間団体が勝手にやって経済を回したりしていて、国家がやるのは徴税と刑罰だけ、みたいな感じだったのだと。だから近代国家を形成するときに国家が個人を把握できず、結局中韓団体の利益で動く、みたいになってしまっていつまでも近代化が進まなかったと。

そして国家の庶民の掌握が劇的に進んだのが日中戦争の過程で、国民党軍も紅軍も総力戦体制となり、個人が掌握できる近代国家的な体制になっていかざるを得なかった、というのが興味深い。そうなるといわゆる対日協力者はどうなるかということなのだが、もちろん汪兆銘ら日本に味方する勢力もあったが、それが広がらなかったのは、日本が彼らの権益をあまり尊重しなかったことが大きいのだと思う。日本は近代国家なのであるべき形を彼らに押し付けようとし、また日本の利益を優先するから、中間団体の歓心を得られなかったのではないか、と思った。この辺は今思ったことだが。

まあつまり、日中戦争の過程で中国では「近代化・国民国家化」が進んだという見解な訳で、そうなるとつまりはアメリカ独立戦争と同じく、「革命」でもあったのだということになるなと思った。

しかし中国の都市と農村、上層と下層という二元性は結局は解決しておらず、百花斉放から反右派闘争と大躍進、実権派弾圧から文化大革命という二元構造は変わらず、改革開放によってさらに上下の、都市と農村の格差は広がっている、という指摘も、現代の問題はそういう歴史的な深さを持った問題なのだということを改めて認識した。

あとは中国のナショナリズムの問題だが、清朝以降朝貢国であった琉球を日本に奪われ、朝鮮を独立させられ、台湾を奪われ、モンゴルに独立され、チベットにも事実上独立された中国では強い領土的なナショナリズムが起こり、清朝末期の「奪われる前の」領域こそが「支那」であり「中国」であるという意識から、清朝が「五族を協和させ支配した」ことを発展させて漢・満・回族・蒙古・西藏の五族を持って「中華民族」と捉え、それが一体化することでナショナリズムを実現するという路線を今でも推進していると。

70年代くらいの本だと日本でも「新たな中華民族の形成が進んでいる」というような中国に阿った記述がよくあったが、この本ではそれは幻想だと喝破していて、その辺りはようやく客観的に記述できる状況ができてきたのだなと感慨深いのだが、現代の世界史理論である「財政軍事国家論」や「大分岐論」から、「なぜヨーロッパの国際関係が世界を巻き込んだのか、という何度も論じ直されているテーマを解明するためにも、中国とヨーロッパの違いを見て行かなければならない、と言っていて、それはそうだと思った。

ただ、中国とヨーロッパの違いを「東西の違い」と捕らえるのは二つの方向から違和感があるなと思った。一つは、それは私たちが日本人だからで、日本は先に書いたように比較的近代国家体制に親和的な体制が江戸時代に成立していたから、中国とは大きく違うし、中国を東の代表みたいにいうのはおかしいと思ったということ。

もう一つは、中国人そのものが自分たちが「東」であると認識していないということだ。中国でいう西洋はヨーロッパだが、東洋は日本のことであり、中国は中国なのだ。これは白川静氏が中国も東洋とカテゴライズすべきではないかと提案したが難色を示されたということを読んだ覚えがあり、そういう意味でも中国を「東」の代表とするのはいかがなものかという気はした。

タイムラインでは清代初期の中央ユーラシア関係の記述が槍玉に挙げられていたが、モンゴル高原でハルハを東、オイラトを西と断言するのは雑といえば雑なのだろうが、そこの詳述がおそらくは目的ではなく、ただ内蒙・外蒙・新疆あたりの草原勢力の大体の感じをマークしておいてくれ、という風に受け取った。モンゴルの内的なダイナミズムみたいなものもそんなに触れられていたわけではないので、それらはまた機会があったら読んでみたいとは思った。

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