カール・フィリップ・エマヌエル・バッハとフリードリヒ大王

Posted at 19/10/02

「古楽の楽しみ」でカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの曲を聴いていて、その解説をなんとなく聴いていたら、彼は大バッハ、ヨハン・セバスチャン・バッハの次男で、ポツダムの宮廷でフリードリヒ大王(プロイセン王フリードリヒ2世)に仕えていた、という話をしていた。

cpebach


フリードリヒ2世はプロイセン王としては3代目。ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公から神聖ローマ皇帝レオポルド1世により王位を許され戴冠したフリードリヒ1世を祖父に、「兵隊王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世を父にもち、1740年に即位したが、即位後すぐに文化政策を大々的に進め、啓蒙専制君主として知られている。私の印象ではオーストリア継承戦争と七年戦争を勝ち抜き、プロイセンの礎を固めた王という印象なのだが、考えてみると「最も成功した啓蒙専制君主」と言えるかもしれないと思った。

自らフルートを吹く芸術家である一方、オーストリアからシュレジェンを奪取し、ポーランド分割にも加わるなど彼自身の著書とは逆にかなりマキャベリスト的な面も強いけれども、おそらくは彼の中ではあまり矛盾していなかったのだろう。七年戦争ではかなり危機に立たされたがロシアで女帝エリザヴェータが死去しフリードリヒを尊崇するピョートル3世が即位してロシアが兵を引いたために危地を脱するなど、幸運にも恵まれているし逆にいえば彼の行なっていた政治がそういう形で評価されていたとも言える。

「啓蒙」的側面と「専制」的側面の両方を持っていたということなのだなと考えながら思ったが、エマヌエル・バッハもフリードリヒに仕えたことを誇りに思っていただろうなあと思ったら、1768年にベルリンを離れ、ハンブルクに移ったということを知った。ハンブルクは名付け親テレマンの活動した場所であり、自由都市だったので、宮仕えを離れたことになる。

18世紀はフランスはそれなりに読んできたがドイツはあまり知らなかったなあとネットで調べながら改めて思ったが、啓蒙時代というのは近代の揺籃で研究も膨大にあるからそれこそそうした研究を読み切る前に一生が終わってしまうような分野ではあるが、まあこんなふうに機会があったら少し調べてみるのもいいなと思った。
「巨大ブラックホールの謎」は読了した。知ったことを少し整理したかったが、また機会があるときに読んだりしてみよう。この辺りはまだ研究途上だから少し経ったらまた今より進んだ研究成果が出てくるところではあるのだしなと。

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