父と子の葛藤

Posted at 19/07/26

ツイッターで紹介されたブログを読んでいたら父の死を悼むことができない自分、という話が出てきて、この感覚わかるなという気がしたのは、父に対してこうあってほしいという男の子側からの思いと、でも父は父で勝手に父であるという現実との狭間みたいなものがあるから、老いた父がネトウヨに走ったり、どう考えてもあまり価値がないだろうという書籍を大量にブックオフで買ってきたりするとちょっと頭をかかえる気持ちになるのだなと思う。

まあそれはつまりは老醜というもので、若かった頃の習慣を維持できなくて思想的にも行動的にも楽な方向に日和ってしまうというか、そんな感じのところがあるような気がした。

白洲正子が青山二郎の死に際のことについて書いていたけれども、あんなにすごい目利きだった青山が死の間際に買っていた骨董は本当にガラクタばかりで、たとえガラクタでも買わずにはいられなかったのだ、というのがすごく印象に残っている。生きる力が低下した時に、昔と同じことをやろうとしても似ても似つかぬ無残なことになってしまうというのは、残酷だけれでも仕方がないのだろうなと思う。

自分自身も10年くらい前なら集中して一気にやってしまったようなことがなかなか手につかず、始めてもなかなか収まらない、なんていうことはよくあって、やはり衰えのようなものは感じるのだけど、ただやり方を変えながらやっていくしかないとは思っていて、ただそれを工夫する時間があまりないのがちょっと辛いなという感はある。

まあできれば、人としては死ぬまで前向きに工夫しながら生きていきたいものだとは思っている。

このブログにおける父と子の葛藤というのは、思想の問題というのもあるのだけど、それはちょっと今回は触れないことにした。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday