『承久の乱』読了

Posted at 19/02/24

『承久の乱』読了。

途中から乱の推移の具体的な記述が始まるのだが、このあたりはかなり面白い。尼将軍政子の演説とか、有名なところはもちろん知ってはいたのだが、後鳥羽上皇の「義時追討」の院宣を「幕府追討」と読み替えて東国武士の決起を促し、まず先駆けを動かすということで泰時やその子時氏をわずか十八騎で先発させるが、瞬く間に東海・東山・北陸三道から19万の大軍となって京に攻め上った、というのを読んでいると軍記物っぽくわくわくさせられる感じがある。

東海道・東山道を進む幕府軍が木曽川の渡河のところでまず上皇軍と衝突したことは知らなかった。瀬田と宇治で合戦があったのは知っていたが、そのときの功名争いとかがもとになって『平家物語』などの「宇治川の先陣争い」のエピソードが生まれたというのはへえっと思った。

また乱ののちの処分も苛烈で、鎌倉に送られた公家たちの多くが道中で斬られているというのはそう言うのがこの当時のリアルだったのだなと思う。まだ若い時氏が囚われの後鳥羽上皇の御簾を弓の弦で上げて「君は流罪せさせおはします。とくとく出でさせおはしませ」と言ったというエピソードなど、勝者の傲慢と敗者の無残をよく表しているように思う。時氏は泰時の嫡子ながら執権になることなく若くして死んでいるので、このあたり何か罰が当たったように当時の人たちは思ったのではないだろうかという気がする。

承久の乱は力と力のぶつかり合いだったが、戦後処分が行われたしばらくのちの後高倉院・後堀川院の宮廷で、平家ゆかりのものも多かったということもあり、昔をしのぶ機運が起こり、平家物語や保元物語などの軍記物が作られるようになったというのもへえっと思った。そしてそういうものに仏教的な無常の観念の装飾が行われたのも、そのような成立の経緯を聞くと納得しやすいところはある。

この後京では後醍醐天皇即位まで目立った争乱はないのだろうか。元寇の騒動はあるけれども。鎌倉では宝治合戦をはじめ御家人同士の争いは時々発生して得宗権力が強化されていくが、相対的には安定の時期に入ったと言えるのだろう。飢饉などはよくわからない。というかこの本を読んでいても、かなりの数の大火や地震、飢饉などが発生していて、中世初期を生きるということは大変なことだったのだなと改めて思うし、かなり有名な人であっても行方知れずになって没年もわからない例が結構あって、そういう時代なんだなと思う。実は誰々、というような貴種流離譚みたいなものは、多分当時の人にとっては現代よりはるかにリアリティのある話だったのだろう。

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