落合ー古市対談を読んで 反人間主義、アートと人と宗教、緊縮財政派の医療費問題観

Posted at 19/01/03

ブログのネタとして突如湧き上がったオウム真理教についてと話題の落合陽一ー古市憲寿対談のどちらについて書こうか迷ったのだけど、後者の方が今後に関わることだし考えておいて意味があるかもしれないと思い、それについて書くことにした。で、対談を読み進めていくとオウム真理教の問題にも言及されていて、何らかの関係があったのかもしれないと思うが、その辺はよくわからない。

対談の最初の方は、人間よりもAIが法律を決めた方が合理的だし公平だ、みたいな議論が続いてちょっとよくわからない感じになっている。そういう感じ方、考え方は「新しい」のだろうけど、無責任というか、そこから出てくる結論自体を議論の中に取り入れること自体は悪くはないと思うけど、それを決定とするのでは『1984』的な完全管理社会感が強すぎるように思う。不完全でも人間が決めるからこその民主主義ではないかと思う。ただ、そこでの人間的価値を否定して、人間を超えた合理主義を志向する考えこそにこの対談の基本トーンがあるように感じられた、ともいえる。それは反人間主義、アンチヒューマニズムとでもいうべきものだ。

ただ、それを受け入れるべきと考える人も一定はいるのかもしれないなとも思う。現代社会、特にツイッターを見ていると人間性の限界のようなものを強く感じ、むしろその人間性の限界に縛られないことを求めている人も一定数はいるように感じられるので。ただ、私自身としては冷静になる材料としてそういう判断を取り入れるべきタイミングはあるだろうと思うが、やはり人間が決めないと民主主義ではないし、まあ決めた方がいいと思っている。

次に気になったのは「認知機能の民主化」「差異の民主化」というターム。視覚や聴覚に障害がある人の認知機能を埋め、健常者と同じように感じられるようにするという国家プロジェクトがあるそうだけど、それ自体は素晴らしいことだと思う。私の母も補聴器を使っているが、聴覚障害をテーマにしたマンガ『淋しいのはあんただけじゃない』で取り上げられていたように実際には補聴器が使える場面はかなり限られている。どんな場面でも健常者と同じように聞こえるようになれば、かなり生活満足度は向上すると思う。

しかしこの「差異の民主化」というのはそれだけにとどまらず、センスの差、制作能力の差をも埋めること、そうしたプラットフォームをつくることを指しているようで、要は「いらすとや」が日本のウェブページの表現を飛躍的に向上させ、また決定的に堕落させたのと同じようなプラットフォームをつくることを指しているようだ。つまり誰でも一定のアート的なものをつくれるようになり、突出したアートが出てこないようにすることがアートだ、みたいな議論があって、ある種のディストピア的な感じがどうしてもしてしまった。

これはあとに出てくるオウム真理教がらみの話ともつながっていて、オウム事件の決定的な傷跡は、アートを衰退させたことだ、みたいな話になっている。アートは本質的にある意味での宗教的な価値を持つ、という主張は一定は同意できる。そして宗教というものが生活と価値観と美意識に根差した価値の源泉になり得る、という主張にも同意できる。宗教にはライフスタイルやドグマやブランドという価値を保存する機能を持つ、というのも同意できる。そうした宗教というものを危険領域に追いやってしまったために、日本では宗教的なもの、カリスマ的な力を持ったものを潰す力が強くなりすぎている、という主張があるようだ。

しかし、日本にはもともとプロ意識というもの、職人仕事の礼賛という伝統があったわけで、逆に言えば彼らの言う「差異の民主化」によってそうした職人仕事の軽視がより一層進んでいるという法が問題ではないかと感じられるところもある。これは日本的な「芸のあり方」の話であり、スピリチュアルなものとそんなには結びつかない、世俗的な在り方の芸を尊重するところがあった。イラストをただで書かせたり、「原価は50円くらいですよね?」という原価厨が蔓延るようになった背景に、「誰でも一定のものがつくれるシステム」があって、それがそれで生計を立てている人を圧迫しているという背景も考えるべきだと思う。

両氏の対談の中では「古ければ古いほど価値が上がる」ものが日本に必要だ、という議論がなされていて、それは本当にそうだと思う。たしかに「なるべく安っぽく作って30年で壊す」というモデル、サイクルからはそろそろ脱却すべきだし、今の行政のやっている「残すべき古いものまで全部破壊して新しく安っぽいものをつくる」というやり方はよくないと思うが、であれば「いつまでも価値が残るもの」をつくれるアーチストがより生活しやすい形で生き残れるようにするべきで、その方向性ははっきりとは示されていないように思った。このあたりはアートというもののとらえ方の違いという面はあろうと思う。

しかし一番よくわからなかったのは日本の危機を脱出するためには歳出を減らさなければいけないという部分で、このあたりはやはり緊縮財政派の別動隊的な言説のようにどうしても感じてしまった。

最後の一か月の延命治療をやめれば医療費は爆下がりする、という主張も根拠がどの程度なのかはわからないし、先ず「金がかかるから治療はやめよう」という主張自体が非常に反人間主義、アンチヒューマニズムな主張である、少なくともそう見えるということにあまりに無頓着であるか、あるいは高齢者層に敵対的であるように感じられてしまう。安楽死や延命治療の問題を医療費削減の文脈で出すことはやはり筋が悪い、というか危険に無自覚でありすぎるわけで、個人の権利としての「尊厳死」の文脈であればともかく、まあこれもかなり語りつくされてしまっている感はあるが、「金がないから老人は死ね」みたいな文脈ではサンデルの「これから正義の話をしよう」の思考実験としてはともかく、正義の実現には資さないように思われるのだが。

なんというか古市さんは割を食っている「若者」の代表の文脈で、落合さんは「国際派」の文脈で語っているのは分かるのだけど、やはり日本での年を経た「生活者」の文脈で、日本の再生について語れる人が出てきてほしいなと思う。昭和平成を生き抜いてきた多くの読者もまた、やはり批判だけではなく新しい提案ができるように自らの思考を研ぎ澄ませていかなければならないとは思った。

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