「魔法使いの嫁」:私という人間について考えさせられる人間と人間でないものの物語

Posted at 18/02/22

魔法使いの嫁 7 (コミックブレイド)
ヤマザキコレ
マッグガーデン
2017-03-10



「魔法使いの嫁」読んでる。今7巻。

「魔法使いの嫁」が読みやすいのは、ナルシズムがないことだなと思う。作者も登場人物たちも自己評価が低いというか。1989年生まれということなので、ゆとり世代。萩尾望都さんの作品などを読んでいると面白いのだけどナルシスティックで、それに酔う快感というのはあるのだけど、物語について考えることはあっても人間について考えることはあまりない。

「魔法使いの嫁」を読んでいると、「人間」について考える。人間と、人間でないもの。人間であっても常人を超えているもの。でもそれらはそれぞれに脆く、あるいは幼く、あるいは年老いて不完全なものがちだ。それら彼らを見ているうちに、自然に人間について考える。それも、「人間存在」と言った抽象的なものではなく、目の前にいる自分自身であったり、あるいは母であったり、身近な人、少なくとも心の中では身近な人について考える。

それがなぜなのかは分からないが、この作品を読んでいると、人間でも人間でないものでも、不完全であることは赦されるし、また不完全であることこそが自然なあり方であるという感じがしてくるからかもしれない。自己評価の高い人間は完全なものを目指すが、自己評価の低い人間はありのままであることを認めることができる、ということなのかもしれない。そこから先、どこへ行くかはわからないけれども。

私自身が一番感情移入をできるのは、チセもあるけれども(チセとはアイヌ語で家という意味だ)、よりエリアスに感情移入できる部分が大きい気がする。エリアスは犬の頭骨と山羊の角が頭部にある怪物なのだけど、チセはそれを自然に受け入れている。これは誰もが感じることかはわからないが、自分の中にある種の怪物性を意識する人というのは多分少なからずいるだろうと思う。だからある意味、エリアスが魔法使いたちの中である種自然に存在することは、怪物らしきものを内部に抱えた私自身や他の人間もまた自然に人間として生き、また人間として年老いて死んで行く自然さみたいなものと通じるような気がした。

「魔法使いの嫁」はイギリスを舞台にした、日本人の少女と人間でない魔法使いの物語だけど、これは今の日本でしか生まれない、物語なのではないかと思う。

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by Luke Peterson

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