「キャパを超えるとはどういうことか」と「主体性とはどういうものか

Posted at 17/12/28

「キャパを超えるとはどういうことか」と「主体性とはどういうものか」。

昨日は忙しく、ほとんど本も読めなかったので本の内容について書くことはないのだが、思ったことなど。

忙しくなると自分自身による自己に対する命令のようなものがどんどん増えてしまい、自己の心理的な容量を超えがちになる。その際に、やれることはやる、やれないことはやめる、ないし後に回すといういわばもっともなことがなかなかできなくなりやすい。心理的な容量を超えるということは、つまりそのたくさんある仕事全体に対する自分の判断能力を超えるということで、つまり、「どれも大事だからどれもやらないといけないしそれをやっている時間がない」という状態になるということだ。

キャパを超える、というのはつまり仕事の優先順位、取捨選択がうまくできなくなるということなのだと思った。そうなるとトイレに行くとかご飯を食べるとかそういう人間としての基本的なことが後回しになりがちになり、そうなると体調を崩したり普通の状態ならやらないミスを犯したりイライラして人に当たったり思わぬ事故を起こしたりする。

優先順位がつけにくいというのは、大事だけど時間がかかることとか小さなことだけど今やっておいたほうがいいこととかそれぞれの仕事の性質が違うもの、絶対的にこれを優先すべき、あるいは後回しにして良いという理由がそれぞれにつけられないことが多いから起こることで、そういうときに最優先すべき課題があらわれると迷いがなくなってそれを先にこなすということになる。

ただ、超ラッキーで盤面をひっくり返せるようなことならともかく、重大インシデント的なことはなるべく起こらないほうがいい。当たり前だけど。

昨日はいろいろなことがうまくいかず打つ手もどうも有効打にならないという感じのことが多くて、自分で自信を持って行動できていなかったなという思いが出てきたわけだが、つまりは自信ないしは覚悟、それほど大げさなものではなくても主体性と言ったらいいか、それを持って主体的に行動するということだなと朝から考えている。

つまり、主体性というものはどういうものかというと、その仕事に対し楽観できるときは自信を持って、そうでないときはある種の開き直り、割り切り、リスクを承知した上での行動、いわゆる「リスクをとる」という行動、つまりいわば覚悟を持って行動する、そういう主体のあり方を主体性とよぶ、ということなのかと思った。

簡単に言えば気合を持って気力を充実させ、過不足ないエネルギーを投入して仕事をやってのけること。過不足ないとは言え、まだ動かしていない物事を動かすということは動摩擦力分だけでは動かず最大静止摩擦力を超える分を投入しなければいけないわけでそのあたりの見極めが難しいのかなと思う。逆に言えばあらかじめ着手だけしておけば再起動するときも起動エネルギーを減らせるわけで、そのあたりの見極めもある。

思いがけず仕事のやり方について書くことになったが、今日思ったことはそういうこと。

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