国立新美術館のミュシャ展へ行った/日比谷図書文化館で「啓蒙のヨーロッパ」を借りた

Posted at 17/05/31

昨日は国立新美術館にミュシャ展を見に行ってきた。急ぎの用ができて今朝早くに家を出たため図録が手元になく、詳しいことは書けないが感想を書こうと思う。

ミュシャ展
求龍堂
2017-03-10



国立新美術館のいいところは、月曜日にやっていることだ。私は日曜と月曜に東京にいるので、催し物などに行けるのは日曜日だけということが多いが、国立新美術館は月曜日に行けるので日曜日に疲れていても月曜があるということで大変心強い。

私が行ったのは閉館が6時ということで5時前に行ったのだが、順番待ち10分というアナウンスがあり、実際そのくらい待ったように思う。私はなるべく空いている時間に行くようにしているので不覚ではあったが、閉館前を狙ってくる人たちも少なくないようだ。

入場すると巨大な「スラブ叙事詩」が巨大なホールで客を出迎え、「凄いものを見にきてしまったな」という実感が湧く。スラブ叙事詩は全部で20枚の連作だが、1枚の大きさが大きいもので610×810cm、小さいものでも短い方の辺が390cmあり、展示できる場所はかなり限られると思った。国立新美術館の2階はあまりきた覚えがなかったが、こんなに大きな展示室があるとは知らなかった。

上空に神、あるいはスピリチュアルな世界が描かれ、下の方には現世が描かれるという構図のものが何枚かあり、エル・グレコの「オルガス伯の埋葬」などに現れる伝統的な構図なのだが、ミュシャの特徴は色合いを変えてあることで、「彼岸」と「此岸」の区別をつけているところにあるように思った。

スラブ民族の神話と歴史が描かれた20枚は南スラブ・北スラブ・西スラブ・東スラブとそれぞれ現代では国家もその体制もそれぞれな民族を「一つのスラブ」というテーマで描いていて、これだけはっきりとした「パン・スラブ主義」の作品を見たのは初めてだなと思った。

特に凄いと思ったのは3部屋目で、5枚の巨大な絵が展示してあるエリアが撮影可能になっていたことだ。今までそういう例は見た覚えがない。皆思い思いに撮影していたが、特に「イヴァンチツェの兄弟団学校」では画面にミュシャ自身が描かれているということで、私を含めその絵を撮影した人が多かったように思った。

そのあと小さめの展示室が4つ続き、いわゆるミュシャ、つまりアール・ヌーヴォーの一人の旗手としてサラ・ベルナールなどを描いたあのミュシャらしいミュシャも十分に堪能することができた。ミュシャの絵は現代のマンガと親和性があるように思う。ミュシャの上手さというのは、なんというか目の付けどころと、それから目の描き方にあると思った。その独特の甘い表現は、若い頃は反発も感じたが、今ではなんというか安心して見られる、彼が身につけた一つの技法なのだと思うようになっている。

物品販売のレジも大変な行列で、もう閉館時間も迫っていたため、地下に降りてアートショップで図録を買った。この図録がかなり重く、2400円だけのことはあるが、ちょっと持ち歩くのが大変だった。

ゆっくりお茶をする時間もなかったので、美術館を出て千代田線で霞ヶ関まで行き、日比谷公園の日比谷図書文化館へ行った。

ここは昔の都立日比谷図書館で、今では千代田区立の「日比谷図書文化館」になっている。最初に1階奥のプロントで少しお茶をして、2階に上がって本を見た。私は都立図書館時代からしばらく来てなかったのでほんの配置なども全然変わっていて、まずは歴史の本がどこにあるのかを探すところから始めた。全分野の場所は掴めなかったがとりあえず歴史は一通り見た。都立図書館時代に比べると一般向けの本が増えたような気がする。

啓蒙のヨーロッパ (叢書ヨーロッパ)
ウルリヒ・イム ホーフ
平凡社
1998-03



ウルリヒ・イム・ホーフ「啓蒙のヨーロッパ」(平凡社、1998)を借りた。原書は1993年、冷戦構造が崩壊し、ヨーロッパが一つになっていくという希望に満ちた時期に書かれた本、という雰囲気が強い。歴史の本だからといって超歴史的な存在ではない。あれから20年、すっかりヨーロッパという存在の希望はその色を変えてしまったのだが、時代というものの残酷さを感じさせられずにはいない。

一体何を読もうか、迷ったのだけど、やはりこの本を借りたのは、なんというか自分にとって啓蒙というのは一つの一生のテーマであるように感じる部分があるからだと思う。啓蒙一般に対してもそうだが、啓蒙の時代といえば一般には18世紀のヨーロッパということになる。その行き着く果てとしての革命の世紀。ホブズボームはThe Age of Revolutionと呼んだが、その前には明らかに啓蒙の世紀、Le siècle des Lumièresがあった。「啓蒙」は「信仰」を「科学」と「人間意志」に置き換えていったが、それがもたらしたものの評価はそう一筋縄ではいかない。今また人文系の没落とともに科学信仰が強まっているけれども、啓蒙という人間それ自体にとってはおそらく善であることの集大成が、多くの悲劇を生み出したことは、手段と目的の関係も含めて根本的な問題があるように思う。

で、今ふと、その問題を乗り越える可能性があるのがAIなのかもしれない、と思ったのだが、それはまあメモするだけに留めておこうと思う。

地下のプロントでパスタと蕪のマリネを注文し、久しぶりに一人でビールを飲んで9時過ぎに帰宅。

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