前向き病:黒歴史を封じ込める心の蓋と地獄からの使者

Posted at 13/11/02

【前向き病:黒歴史を封じ込める心の蓋と地獄からの使者】

ここのところようやく、「心の蓋」を開けられるようになってきた。それは自分が「コンテンツ系男子である」ということがわかったからだ。自分が分かって余裕が出てきたので、自分の心の蓋も開けやすくなってきたのだろう。10月28日の「コンテンツ系男子」より後のブログ、10月29日以降のエントリは心の蓋を開けて書いている、と自分で思う。

ここのところの私にとって、心の蓋を開ける、そしてその状態で文章を書くというのは簡単なことではなかった。「ありのままの私」を見せるというより、「あるべき姿の私」を見せるという方へ、常に引っ張られていたからだ。

「あるべき姿の私」というのが何なのか、分かっていたわけではない。ただ、ここのところの傾向を今振り返ってみると、何でもバリバリ、てきぱきとこなしていくぶると―ザーみたいなタイプが、無意識のうちに「あるべき姿」になっていた気がする。つまり、常に前向きに何でもこなしていくという人間だ。

これはつまり、「考え込んでいて何もできない人間」の対極としての理想像であって、やはり自分は「何をやったらいいか分からない」と思っていた時期が長かったため、「これをやるということになったら猛然と何でも片付けられる」という人間がネガポジの形で理想像となっていたのだろうと思う。

だから、少し考え込んでいると、すぐ「前向きの姿勢」が押し寄せて来る。そうしていると心の蓋の中で何を感じているのかがわからなくなってしまう。

「前向きの姿勢」とはつまり、「死を考えない姿勢」なのだと思う。死ぬことを考えず、とにかく前に進む。成長することだけを考える。後ろ向きの姿勢のものを叱咤して、とにかく前に進む。確かに、そういう姿勢が必要な時はある。

それはサバイバルの時だ。生き残れるかどうかヤバイとき。こんなときに後ろ向きになっていたら生き残れるはずがない。実際、多くのものがそれで死んだに違いない。

しかしこの意味での「前向きの姿勢」は表現には向いてない。表現は、死と向かい合うところから始まるところがある。自分が死ぬかもしれないという前提で、おおげさに言えば死を見つめ、見通したうえで自分をじっくりと考えることからしか、表現は出て来ない。

その死を見つめ、見通したうえで自分をじっくりと見つめ考える、というのが心の蓋が開いた状態なのだ。

それは死と言わず、たとえば破滅と言ってもいい。失敗であるとか、崩壊であるとか、つまりは前向きな心が見ないようにするものたちである。それは、自分がこういう人間だという理解とか、あるいはある種の諦め、開き直りのようなものとも関係がある。

そこに、「だから何なの?」という言い訳、逃げのようなものが伴ってしまうのは、そういう言葉をつけておくことで逃げられるかもしれない、また前に進めるかもしれないという一縷の希望みたいなものを捨てたくないからだろう。しかし心の蓋を開けるというのは、そういう開き直りみたいな希望にも黙っていてもらい、言わば静かに死の世界を見つめる、というような態度が必要になる。

自分の中には、さまざまな屍が累々としている。やろうと思ってやれなかったこと。憧れたけど届かなかったこと。好きだったのに別れた人。諦めなければ負けたとは言えない、というのが究極の前向き思考なわけだが、諦めるというよりもその屍が累々とした状態が本当に見えるのが心の蓋が開いた状態ということになる。

まあ言えばそれは「黒歴史」なのだが、「黒歴史」を正視でき、それについて冷静に書ける状態が「心の蓋が開いた」状態だと言えば、分かりやすい。つまり「黒歴史」というものは無意識に心の蓋の中に隠してあるものであるわけだから、心の蓋を開くというのはそういうことなのだ。そういうふうに言えば現在使われて入る用法よりも、「黒歴史」という言葉の範囲が広がるように思うけれども。

で、だから「黒歴史」に蓋をして常に前に進もうとするのが「前向きな姿勢」と言えばいいだろう。まあ誰にでも多少の「黒歴史」はあると思うが、その歴史を否定して前に進もうとすれば、必ず自分自身の「黒歴史」に多少なりとも足を引っ張られる。それに負けないためには、断固として進むしかない。「前向きな姿勢」というのはある意味そういう凄絶なものでもある。

そういう「黒歴史」を思い起こさせるものは言わば「地獄の死者」であって、「前向きな人」はそういうものを忌み嫌う。そういうものに出会ってもそれを蹴落とし、蹴散らし、無視し、粉砕して前に進むのが「前向き」であることだ。これはある意味相当な信念と体力がいる。「黒歴史」から抜け出したばかりの衰弱した精神と身体の状態ではなかなかそうはできない。

私がそういう「前向きの意志」を獲得したのは、身体的に言えば野口整体の考え方が納得がいき、この方向で自分の身体を維持していこうと決めたことが大きいが、精神的に言えば『ずっとやりたかったことを、やりなさい』を読んで「やりたいことをやる」と決めたことが大きい。それ以来ずっと生産的だった、とは言い難いが、少なくともうまくいかなくなったときに常に「私のやりたいことは何か?」という問いに立ち戻り、そこから再スタートを切れるようになっていたし、身体の状態が思わしくないときもその状態に合わせた仕事の仕方やその状態を今保たなければならないのか、それとも変える時期なのかというようなことを考えながら余裕を持って自分の身体を見られるようになっていた。

そうやって私は自分の「前向きの意志」を鍛え、強化してきた。やりたいことが何でもやれたわけではないが、少なくとも常に前向きに考えるその姿勢で自分自身を統御することはできるようになっていた。

しかしそうしてみると、とにかく前向きになるのはよいとして、それが「何のために」前向きになるのか、ということがよくわからなくなってきた。やりたいことをやるのはよいとして、それでは「やりたいこと」とは何なのか。その時その時、その刹那にやりたいことはわかるけれども、私が一生を費やしてやること、つまりこういうことをしたのが自分の人生だった、と言えることは何なのか、ということが分からなくなっていた。

「前向きの姿勢」を取ることはいいけれども、姿勢そのものの中にはその姿勢を取る理由は用意されてない。理由がわからないから方向性も得られない。それではその方向性はどこにあるか。前向きの姿勢を取ることで無視し、蓋をしてきたその心の蓋の中身、暗い自我の中にしかその方向性はないのだと思う。

頑張ってはいるんだけど、この人何のために頑張ってるんだろう、と感じさせる人は結局、そういう自分の暗い自我を見ることを恐れ、拒否しているのだろうと思う。というか自分はそうだったなあと思うということだけど。怖いから見ないようにして頑張ってとにかく前に進む、ということで何とかなる面もなくはないのだが、一生そういうわけにはいかないだろう。

真理に暗く、生きる意味を見いだせないまま暗闇の中で手さぐりに生きていることを仏教では「無明」というけれども、自分の暗い自我を見て自分が生きることの意味を知ることが出来てはいない「前向き病」の人は、そういう意味で「無明」なんだろう。

私が自分のことを「コンテンツ男子」などと定義するのは、まあ言わば恥ずかしいことだ。いい歳をして、と自分でも思う。ただ、私はそういうふうに世界をとらえているんだということがようやく分かったし、であればそういう世界のとらえ方で人々に対して自分の表現をして行くことが自分がこんなふうに生きた、ということなんだと思う。

それを面白いと思う人にそれを伝えて行けばいい。

そういうわけで書いていて思ったのは、自分が本当にやりたいことというのは、自分から見てかっこ悪いことかもしれないのだ。前向きに、というか「前向き病」で生きていると自分がかっこ悪いことはやりたくないと思う。自分がかっこ悪いと思うことは自分にブレーキをかけるからで、それこそ「地獄からの使者」のように思えるからだ。

だからとにかく、とことんまで妥協なく自分がやりたいことについて自分の考えていることに近いと思われる本を参考にしたりしながら自分を問い詰めてみたらいいと思う。そこで見つかったものは、どんなにかっこ悪いものでも自分だけのものだ。そしてそれと心中することが、自分らしく生きるということなのだと思う。

かっこよく生きるのはよいけれども、かっこつけて生きるのはどうかなと思う面もある。

かっこつけないで生きるのはかっこ悪く思うかもしれないけどほんとはかっこいいかもしれない。

自分だけの生き方をしている人は、どんな人でもかっこいいと思う。

心の蓋というのはパンドラの箱の蓋のようなものだね。そしてすべての悪霊=黒歴史と一緒に同居している「希望」というのが本当にやりたいこと、それをやることが自分を生きることになるということなのではないかなと思う。

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