宇宙論と生命論:アリストテレスのプシュケー/『キレイゴトぬきの農業論』読了:「有機の人は要らない」

Posted at 13/10/12

【宇宙論と生命論:アリストテレスのプシュケー】

神秘主義の源にある生命論と宇宙論、という問題について考えていて、宇宙論はコスモロジーだが生命論はなんだろうと思ってWikipediaで調べてみると、アリストテレス以来の生命についての考察の歴史が出てきた。

生命は古代ギリシャではpsycheで、このプシュケーとは元来的に呼吸のことであり、生命のことでもあり、心のことでもあり、たましいのことでもあったのだという。現在ではpsychorogyとは心理学のみをさすけれども、生命と心と呼吸が同じ言葉で表現されていたというのは示唆的だなと思った。

だからアリストテレスまでさかのぼれば生命論もサイコロジーでいいとも言えるが、さすがにそれは一般性がないだろう。生命科学と考えてみるとライフサイエンスになるが、これもまた既存のイメージが強過ぎる。もっといい言い方がないものかもう少し探して見るかなという気はする。

しかしアリストテレスが植物や動物だけでなく鉱物にも生命があると見ていた、というのは面白かったし、19世紀の初めには鉱物と生物の間に線を引くことを強く主張した、つまり鉱物にも生命があるという考えがかなり根強いものだったというのは面白いと思った。

ただヨーロッパ思想の源流にはギリシャ思想だけでなくキリスト教思想もあるわけで、まさにキリスト教は古代中世と膨大な宇宙論体系を築いてきたわけだから、それが生命論にも影響してデカルトの生命は神の作った機械である、という論が出てきたというのはなるほどそういうことだったのかと思った。生命論体系を宇宙論体系に屈伏させる試みだったわけだ。

近代科学の側からその源流を見るとデカルトの機械論的宇宙観=デカルティズムはある種画期的なものなわけだけど、それは逆に言えば鉱物と生物との線引を曖昧にするものでもあったわけだ。それが18世紀になって出てきたヴァイタリズムによって生物と非生物に厳密に線を引くようになり、生命は非生命と違う別の原理を持つという考え方が出てきたわけだ。そんなことは当たり前のことだと思うけれども、実はそうでもなくて、現代生物学では生物と非生物はどこが違うかという議論を避ける傾向にある。というのは、現在爆発的に進化中の分子生物学の考え方が強くなってきているわけで、つまり非生物から生物を合成するのが可能かどうか、というところが一番ホットな問題になってきているからなわけだ。完全に非生物から生物が合成できるなら生物と非生物には境界はない、といえるわけで、そうなると古代やデカルトとは違う意味であるにしても機械論的な生命観が完全に勝利するということになる。まあそこがはっきりしないから、生物と非生物を根本的に区別すべきかどうかという議論も止まっている、ということなのだろう。

ただまあ、デカルトの機械論的宇宙観みたいなものは親の仇ではないがそういう思想が人間性を阻害する大きな原因になってきたという認識を持っていたのだけど、それが単純な彼の個人的な発想によって出てきたものではなく、アリストテレス以来の思索と思弁の結果として出てきたものだったというところが何と言うか感動した。

学問というものも、私の考えつくようなことはけっこう既に考えられてきた歴史があるんだなと思ったし、(というか私のある意味サブカル的な知識体系にだってそういう古代以来人々が考えてきたことが表現されて反映されているから当たり前と言えば当たり前なんだが)世界というのも捨てたものではないなと思った。アリストテレスの『プシュケーについて』は読んでみようかなと思う。一番手に入りそうなのは講談社学術文庫版の『心とは何か』だろうか。

アリストテレス 心とは何か (講談社学術文庫)
桑子敏夫訳
講談社

心霊主義やスピリチュアル系の本を読んでいると、日本人は分かりやすさを心がけているような本が多く、翻訳書(つまり外国人の書いた本)ではこの考え方がいかに科学的かを強調するような本が多いのだけど、西欧人にとっては正統教養であるギリシャ的思弁論とキリスト教的宇宙論の中に既にそういうものが多く胚胎しているわけで、むしろ彼らは自分たちが古典教養の正統的な末裔だという自負のようなものもあって、「科学は哲学の婢」的な思いがあるのかもしれないと思った。生命論のところに描かれていた『存在の輪』の概念の中に、生命の進歩の過程として鉱物から植物、動物、人間を経てもっと優れた存在である天使になって行く、みたいな概念があって、なるほどと思った。スピリチュアルの本を本当に理解するためにはそういう教養が必要なんだと思った。まあ教養があったからって理解できるかどうかは人それぞれだろうとは思うけれども。

神秘主義というのはまあ、正統の教養からこぼれおちたところにあるオルタナティブなものという意識がどうしてもあるのだけど、全然無縁というわけでもない。サブカルチャーがメインカルチャーから外れたものではあっても、やがてメインカルチャーに「昇格」していくもの(能楽とか)もあればメインカルチャーが上の階層から下の回想に降臨して来ることによって独自に発展していく(農村歌舞伎とか)みたいなものもある。宇宙論の支配の強い伝統社会では自らの起原をことさらに言い立てる必要が出て来るけれども、生命論の強い社会では何でもありになって行く。近代から解放されたという幻想のあった68年革命からポストモダンの時代にサブカルチャーが一気に花開いたというのももちろん偶然ではない。

現代、つまり2013年という時代はどちらかというと収束方向というか、思想も考え方も一本化していこう見たいな勢いが強い傾向になっているような気がするが、たぶんだからこそ人々がオルタナティブを求める無意識が強くなってもいて、またそういうものを研究し表現していく意味もまたあるのだろうと思う。


【『キレイゴトぬきの農業論』読了:「有機の人は要らない」】

キレイゴトぬきの農業論 (新潮新書)
久松達央
新潮社

大変面白く、ツイッターでもいくつか印象的なフレーズを引用したのだが、有機農業に関する二方向からの神話を打破しようとしている著者の考え方が一番印象的だったと言っていいと思う。

ひとつは慣行農法の側、つまり従来の農家、農業関係者からの神話というか思い込み。著者は就農地を探す過程で二つのことを関係者に言われたことが気になっているのだという。ひとつは、「農業は一人ではできない」、すなわち夫婦で、家業としてやるべきだという主張だ。これに関して言えば、従来の農業は家業だったし、また事業というよりはそれ以外に生き方がない、という時代から続けていることだから、ビジネスマインドがあるとは言えない。だから農家とはそういうもの、という従来の見方とそうあるべきというよりそうでない姿など想像もしたことないという立場が今でも強いということは確かだと思う。封建時代からの日本の農業は、基本的にまず自分たちの口を食べさせるためのものだっただろう。

ただ、封建時代から戦前までの農業産品の流通についてはちゃんと調べたことがないのでどういう制度だったのかはよく分からないが、戦後に確立した農業協同組合(農協)による全量引き受けやその指導によって何を植えるか決めるというようなやり方ではなかったから、戦前の方がまだビジネスマインドが場合によってはあったかもしれない。農地改革前だから、ほとんどの農村が厳しい地主支配の体制下にあったとは思うけれども。

農地改革は耕作者が所有者という体制を確立したけれども、農協の存在は農家の企業家としての自立にとってはプラスではなかっただろう。いや、もちろん「皆が生き残る」という意味で大きな役割を果たしたとは思うが、現在ではその存在感はむしろマイナス面が増えている印象がある。

ただ元来が農家の互助組織なのだから、上手くやれば改革派の農業経営者がイニシアチブをとるということも考えられるけど、現状では難しいだろうとは思う。

農業のニューウェーブは確かに起こっていると思う。経営形態としての株式会社化のようなビジネスとしての形を確立しようという動きもその一つで、働き方の一つとしての農業、農業労働者から農業経営者へ、という道はもっと出てきてもいいだろうと思う。生き方としての農家から、職業としての農業へ、というのは農業が生き残るためにはある種の必然(それが本当にいいことかどうかはちょっと私にもわからないところはあるのだが)なのではないかという気がする。

もうひとつ気になったというのが「有機の人はいらない」という言葉だったそうだ。これは凄い言葉だなと思うが、二つの面から考えることが出来るだろう。

ひとつは著者が書いているように、「有機農業など子どもの遊びだ」という慣行農法・農業行政の側の決めつけ。従来の農家というのは本当に生き方が固定されてしまっているし、本当に融通がきかない人が多い。私の実家も祖父の代までは農業をやっていたが、どうもそれだけで十分には食べられなかったようで、曾祖父は屋根屋をやっているし、婿養子の祖父は小学校の教員だった。その前の代は分からないけれども、古くからの兼業農家なのでわりと融通がきくというか、先祖でも「子どもが病気になったりしたら畑を売ればいい」みたいなことを言う人があったと生前父が言っていた。だからまあそういう「頑固な農家」みたいなものの実感はあまりないのだが、いろいろ話を聞くとそういう人は多いようだ。

農家というのは、というか村社会というのは横並び志向が強いから、一軒だけ違うことをするというのをものすごく嫌がる。うちの畑だけ農薬をまかないでくれと言っても村で決めたことだからそういうわけにはいかないとかになりやすい。一軒だけ違うことをやるというのはある意味農村の権力構造のほころびだから、そういうことで嫌がるケースは多いだろうと思う。

もうひとつは「有機農業では規模が小さいから経済に寄与する経営が出来ない」という主張。それなら何をやればいいのかと聞くと「産地として確立している産品を作れ」というのだという。技術指導も受けられるし低利で融資を受けて設備も作れるから安全だ、というわけだ。つまり「親方日の丸の傘下に入れ」、と言っているわけで、これでは新規で農業をやろうという若者など出て来るはずがない。市場の動向で値崩れして大量に廃棄したり、自分の意にそわないやり方を指導されたり、融資を受けて借金の返済に四苦八苦したり、というのであれば従来の農家の問題点が再生産されるだけだ。子どもたちがそういう風景を見て農業なんてやるもんじゃないと思っているのに、それを単なるわがままだとしか受けとめていないことが多いのだろう。そして結局は、「役場か農協」に就職してくれれば現金収入もあって安泰、ということになる。

農業の足腰を強くしていくには従来のやり方にとらわれない新しいやり方が必要だ、というふうに考える農家や農業関係者はごく少数だろう。政治家も、「従来の農家を守る」という方向には力を尽くすし、「日本の農業を輸出産業に!」みたいな掛け声をかけるのは好きだが、従来の農業に内在する問題点を改善しようという方向にはなかなかいかない。やはりそこには既存の権力構造を破壊してしまうことを恐れる気持ちがあるからだろう。農業は産業である以前に政治家にとっても農業関係者にとっても農家自身にとっても権力構造であり過ぎるところが問題なのだろう。その辺は労働組合の問題と似ているところがある。有効期限の切れた「戦後改革の成果」の後始末がなかなかできないということなのだろうと思う。

ここまでは既存の農業の宿痾のようなものだけど、もうひとつは「有機農業」の側の問題だ。農業製品というのは口に入れるものだから、ある意味神聖なものだ、という受け止め方がある。それ自体は私も正しいと思うし、日々の食事をおろそかにしないということは、人間として正しいあり方だと思う。

人間にとって最も重要なものの一つが健康だが、これほど不確かなものもない。だから医学だけでなく、さまざまな健康法が近代以前から伝えられ、現代はまさにそういう情報の花盛りなのだが、そのうちの一つが食べ物を重視する考え方だ。マクロビオティクスなどの考え方に基づいて、「自然食」を推進する運動がある。食べ物は出来るだけ自然に育ったものがよく、農薬や化学肥料などの人工物はなるべく、出来れば全く使わない方がいい、という主張がある。それらはアトピー性皮膚炎やら小児喘息やらの子どもの現代病の深刻化に伴って、より強い意見となって生産者側への要望となっている。

有機農業もそういう契機ではじめる人が多く、土と水と生命への信仰みたいなものが信念の根幹となって取り組んでいる人たちの中には経済やお金や流通について強い拒否感を持つ人の割合がかなり多い。私自身も、長い間自然食品とか有機野菜というものには偏見があって、美味しくもないのに高くて、なんだか思想と能書きを食べさせられているようなものだと思い、全然拒絶していた時期があった。

最近になって、あまりそういうカルト的な雰囲気ではなく、もっとカジュアルな感じで有機野菜や天然酵母のパンなどを扱う店が増えてきて、またそういう店はちゃんと経営感覚くを持って事業展開をしていて、ここならあんまり構えずに買えるなと思う店を使うようになったら、野菜が美味しくてびっくりした。本当に、子どものころに食べていたような野菜の味なのだ。

まあそういう形で私は有機農業というものを見直し、こういうものなら付き合えるなと思ったのだけど、先に書いたような「思いこみ系」の有機農業家はおそらくまだ多いのだろう。著者自身も、「あんたのやってることは、商売じゃないか!」と言われたことがあるそうだが、商売でなければ何なのかという気はする。職業というのはやる意味が感じられることをやるに越したことはないが、まずは対価を得なければこの資本主義社会では成り立たない。そういう意味では現代社会で生きるためには誰もが経営感覚や経済感覚を持たなければならないと思う。

団塊の世代くらいまでさかのぼるとどうしても大義とか正義によりかかっている人は多いと思うのだけど、やはり思想的な意味でも経済をきちんと動かせることというのは自立のためには必要な条件だと思う。

清貧幻想とか「土に生きる」みたいなものが一概にすべてダメだとは言わないけれども、「自分の関わる人たちに美味しい野菜を食べさせてあげられる仕組み」を作り、ちゃんと経済的にも回して行けるようにしている作者の実践は素晴らしいと思う。

余談になるが、ツイートしていたら著者ご本人からRTしていただき、慌ててご挨拶した。ブログやツイッターで著者本人とやりとりをすることが増えていて、SNS時代というのは本当に著者―読者の垣根を低くしたものだなと思う。そういう意味では、いろいろと楽しい。

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