「読書ノート」と「方法」/finalvent『考える生き方』を読んだ/インタナショナルな大学とドメスティックな大学/「学問は英語でやった方がいい」という主張について/意味の記号性と神話性とか

Posted at 13/09/25

【「読書ノート」と「方法」】

昨日帰郷。お彼岸も今日で6日目、「暑さ寒さも彼岸まで」という通り、朝夕はかなり涼しくなってきたし、日中気温が上がってももう真夏のようなことはなくなってきた。今朝起きた時にはあまりにさわやかで、さわやか過ぎて大丈夫か、というような感じだった。昨夜は少し疲れていたし、仕事中に頭をぶつけてしまって少しそれを警戒して風呂にも入らず身体を簡単に流すだけにして12時前には寝た。起きたのは6時過ぎだった。

もともと頭の中が妙な感じがあったので、今頭の感じが変なのが頭を打ったせいなのかそれ以前の問題なのかが良くわからない。ただ、三脈は揃っているし、腹部の第一・第二・第三調律点もちゃんとしていて、一息四脈も大丈夫なので、基本的に問題はないと思う。頭を打つことによって、頭がふわふわするのが助長されている感じはするが、頭がふわふわしていること自体は頭を打ったからではない感じだ。

いろいろ考えて、読書ノートをつけることにした。読書ノートと言っても大げさなものではなく、というかいままで大げさに考えすぎて書くのが続かなかったのだが、つまりは読んでいて気になるところを書きうつしたり、その時考えたことをメモしたりするというだけのもので、それをただ時系列的に書いていく。何冊か並行して読んでいる場合は、ページによってどの本の感想になっているか違ったりしてもかまわない。あとで見返すことよりも、その時に忘れたくないと思ったものをそのまま書くというだけで、まあとはこういうふうにブログを書いたりするのに使うだけだから、あとで読んでその時どんなことを考えたか分かればいい程度に書こうと思っている。だから本によってはその本の内容より、その時自分が考えたことの方がメインになって書く場合も多いかもしれない。

私は息をするように本を読むところがあるから、本を読むのに支障が出るようなノートのつけ方はやはり続かない。著者名・題名・書誌情報みたいなものを一行目に書いてさあ要点をまとめるぞ、みたいな感じでやっても絶対に続かない。それが仕事であるなら別だけど。そういうものはいろいろ試行錯誤していて、本にそのまま書きこんでいた時期もある。最近は新書や文庫なら読んでこれと思ったところに線を引き、思ったことを欄外に書きこんだりこれと思ったページの隅を折るとかすることが多いのだが、まああまり本を汚さずに、あとで新鮮な気持ちで読み直せるようにするには、自然な感じでノートを取って行くことが読む時の忘れたくない感とあとで確認できる必要との両方を満たして自分が何をやったかその痕跡も残しやすいという意味で一番いい方法なのではないかと思った。

世の中にはいろいろな『方法』があるが、特に私にとって重要なのはあまり負担にならないこと。気軽に出来ること。続けられること。が大事だ。それが上手くはまって、一日の生活時間に組み込めるとその習慣は続く。モーニングページはもう丸6年は続いているし、受験時代もZ会の添削は全部期限通りに出した。英語の速読の教材も朝一に必ずやるということを習慣化したらあっという間にやりきれたし、方法を血脈化するということはそんなに苦手ではないようだ。

しかし逆に、不合理なところがある方法はなかなか続かない。教員をやっていたときなど、学校のやり方というのは不合理なところや納得のいかないところがものすごくたくさんあるのだが、基本的に教員というものはやり方を変えることが嫌いな人が多く、どんなに不合理であってもなかなか変えない。何か大義名分を作ってだからこうするべきだとやれば動かないことはないが、しかしその方法だって完ぺきではないわけだから上手くいかなければすぐ変えればいいのに、そのことについてぐずぐず言って前の方が良かっただのだから変えるのはだめなんだとか今更もう変えられないとか言いだして動かない。考えてみたらそういうことだから私はこの仕事を続けられなかったんだなと思うが、まあそんなこともあって組織というものは自分には向かないなあと思うところが強くなったなあと思う。

方法の適否、向く向かないというのはやはり生理的な部分が多く、そういう意味で私は「標準化」という考えがあまり好きではない。それを基準にしてそれからバリエーションをつけて行くと言うならまだいいのだけど、というかそうやってやり方を学ぶことは私だって良くあることなのだけど、標準と違うから間違っているとか、標準からずれている部分を標準に合わせていかなければとなりがちなので、そういう考え方自体が人間というものに向いていないと思う面が強い。私は「人間は一人一人違う」という考えと「人間はみな同じ」という考えとでは前者の方が強い人だから、標準化とかグローバルスタンダードという言葉はなかなか合わないなあと思う。

だからまあ、自分のやり方を人に押し付けてもなかなかうまくいかないし、私はこんなふうにやったけどあなたはそれを参考にして自分のやり方を作るんだよ、という考えが強い。まあその基礎さえできてない場合は、標準的なテキストを使わざるを得ないし、まあ私はそういう考えが強かったから中学生や高校生、あるいは大学生のころに標準的な学習法というものをきちんと身につけられずにあとで苦労したということはあるので人に言うときにもそのあたりは気をつけてはいるのだが。そのあたりはバランスの問題だ。

まあ私は、自分の主体というものが、「本質」とかより「方法」とかと結びつきやすいところがあるから、生理的にやりやすい「方法」というものにこだわってしまうところがある。カンで理解できるところはカンで、頭で理解できるところは合理的な説明で身につけて行くのが一番いいのだけど、まあ色々なところにトラップはあるものだから、なかなかすんなりとはいかない。

「読書ノート」の話から「方法」一般の話に飛躍してしまったが、まあそういうわけで何かをやるための方法というのは、なるべく今までやっていたことの流れを切らない、なるべく抵抗がなくてなるべく積み重なって行き、なるべく形として残るものが自分にとって良い方法なんだなと思う。まあ読書ノートの話で言えば、ようやくそういう方法が見つかったなという感があるということだ。やっていることは同じようなことでも、位置づけや意味付け、注意点が違うと全然うまくいかなかったりするということでもある。


【finalvent『考える生き方』を読んだ】

考える生き方
finalvent
ダイヤモンド社

少し前から『極東ブログ』執筆者、finalventさんの自伝的な人生考察、『考える生き方』を読んでいて、昨日ようやく読了した。今までもこちらとかこちらに断片的に感想を書いているのだが、読了したということで小見出しにも書名を上げさせてもらった。

ひとことで言えば、大変面白かった。類書はなかなかない気がする。同時代性も強いし、こういうときにはこうしたらどうだろう、みたいな提案やそれを実行した結果みたいな部分もとても面白い。書名の『考える生き方』というのはまさにその通りで、本当に「考えて、生きて、考えて、生きて」の繰り返しで55年生きて来られた方なんだなと思う。

私より5歳上で、ほぼ同時代を生きておられることは確かで、ものすごく共感する部分もあり、全く違う経験をされている部分もあって、そういうところはただ「なるほどそういうものか」と思うしかないのだが、自分で経験してないからわからないことなのに、そういうところに説得力を感じる。そういう意味ではすごく良く出来たフィクションみたいなもので、一人称の主人公に感情移入出来るということだから、まああれだけの文章を書いている方に今さらなのだけど、文章が上手いなあと改めて思わされた。

私が氏の文章にはじめて注目したのは、そういう方は多いと思うけれども、『極東ブログ』にダルフール問題が取り上げられた時だった。それが専門の方かと思ったがどうもそうでもなさそうだし、スタンスが冷静なのに非常に詳しい情報を知っていて、いったいどこから何を聞いてこういう記事を書いているのだろうと不思議に思ったことがきっかけだった。今にしてみれば、BBCをはじめとする多くの海外メディアで詳しく取り上げられていることをソースに書かれていたのだと思うが、主に日本の報道にしか触れていない(サイトでは欧米のものをたまに読まないこともないが、主に日本に関連したことがほとんどだった私にとってみれば、凄いことをされているものだと思った。田中宇氏のようにそれを生業にしている人もいるが、『極東ブログ』はそんな気配もなく、惜しげもなく世界を紹介しているように思えたのだ。

ただ、ブログを読んでいると私とは意見が異なるところもかなりあり、必ずしも熱心な読者ではなかった。ときどきツイッターでやりとりをさせてもらって、なるほどと思うことも多くあったが、なぜそんなふうに考えるのだろうと疑問に思うことも多かった。

この本が今年の初めに出たことは知っていたが、意識はしつつ読んではいなかったのだけど、最近『進撃の巨人』を巡ってツイッター上でやりとりをさせてもらったのをきっかけにして、発言の背後にある人間というものを知った方が発言の意味がとらえやすいし得るものも多いように感じたので読んでみることにしたのだった。

断片的には今までも感想を書いていたが、今回は主に5章以降と読み終えての感想ということになる。


【インタナショナルな大学とドメスティックな大学】

第5章で一番インパクトがあったのは、ICU(国際基督教大学)という大学の存在とその教育の仕方だった。finalventさんが高校時代までどのような経歴なのかは分からないが、ICUに進まれ大学院まで合わせて6年間在学されたということが、自分とは一番大きな違いで、そこでかなりの考え方やものの見方の違いが形成されたのだなと思う。ICUはマッカーサーが財団の名誉理事長になって設立の募金運動をして出来た大学なのだそうで、そういう意味でアメリカナイズされたインタナショナリズムがその基盤になっているのだなと思う。そんなことも私は知らなかったのだが。

ICUには多国籍の学生が在学しているということは知っていたが、そこで重視されるのが「人権」の概念だというのもなるほどなあと思う。本当に文化的基盤が多種多様な人間がいて初めて人権の概念が意味を持ち光り輝いて見えるというのはあるだろうなと思う。入学式の時の学生宣誓で「私は国際基督教大学の学生として大学の目的と理想の実現のために世界人権宣言の原則に立ち法を尊び学則並びに指示に従うことを入学に際しここに厳粛に宣誓します。」というのだそうだ。

私が似たようなことを経験したと言えば、東京都の教員になったときだ。口に出しては言わなかったが、「公務員として日本国憲法を遵守し云々」というくだりがあった。まあ当時から日本国憲法には反感があったのでまあちょっと複雑な思いはあったが、日本国憲法というのは占領軍に押し付けられたとか何とか言っても日本語で書かれたドメスティックな存在であって、国境を越えて効力を持つものではない。しかし世界人権宣言は国際条約だから世界中でひとつの規範になるものであり、それに従うことを宣誓するというのはものすごくインタナショナルなことだなと思った。(いいとか悪いとかの問題はとりあえず置いておく)

私はいろいろな事情があって国立大学しか考えていなかったので、結局ドメスティックの総本山とも言うべき東京大学に進んだ。東大はまあ、日本の大学なのである。ICUは違う。東大は日本の大学で、大学の教員も学生も、多かれ少なかれ「日本」というものを強烈に意識しているところがある、とICUのくだりを読みながら思い当った。「東大の使命」は、「日本を良くすること」であって、国際人を育成することではない。これは前進が幕府の昌平坂学問所であるとか明治政府の官僚養成と富国強兵のための学問の確立を使命としたとかいろいろな理由があるが、結局は現在でも日本を背負ってたつ人材を育てることが東大の使命であって、それは教授陣にも学生にも無意識に浸透していると思う。逆に言えば、そこが重いと感じる人も多いだろう。学生時代、早稲田の学生が何であんなに良く言えば軽やか、悪く言えば軽薄なんだろうと思ったものだったが、よく考えてみれば東大が重すぎるのだった。

まあもともと私はドメスティックな志向の強い部分があるのだけど、東大に行ったことは無意識にそれを助長していたのだなとfinalventさんのICU体験と比較してみるとそれは良くわかる。

東大は、ある意味靖国神社に似ているのだ。靖国は東京ではない、という感じがする。あそこは日本だ。沖縄の人も来ていれば北海道の人も来ていて、ある意味抽象的にしか存在しない「日本」というものがあそこに行けばある。靖国は東京ローカルではなく、ある意味日本というものが具体的に形になっている場所なのだ。それは京都や奈良の伝統文化の粋としての日本とは違い、近代国家としての日本が集約された形としてそこにある。遊就館などに行けばそこには近代日本の神話があり、霊廟には近代日本を護持した神々が祀られている。立っている銅像は大村益次郎であって大久保利通でも木戸孝允でもましてや西郷隆盛でもない。大村は日本陸軍の事実上の創設者であり、終始一貫して日本を護持した存在なのだ。

東大には、日本中からエリート候補生たちが集まって来る。私のように特に意識もなく成績が取れただけという理由で迷いこんで来た者もいるのだが、やはりその強烈なエートスには強い影響を受けているなと思う。基本となる文化は筑波大駒場や灘・ラサールと言った有力進学校の文化が持ち込まれてはいるけれども、それらがすべてではない。今は知らないが当時の東大生は自分が勉強しかしてこなかったという意識がすごく強く、遊んでいると意識された慶応の学生なんかにコンプレックスを持ってたりしていた。案外英語が出来ない人が多く、英語が苦手な私はその点ではけっこう安心した。安心したのがまずかったという話はあるが。

まあそういう学問の基盤、生き方の方向付けのようなものが、ICUと東大でそこまで違うというのは今まで意識したことはなかったが、やはりそういう部分の認識のずれというものはすごく大きいと思った。

東大の学生や出身者というのは、何かを考えるときに、合理的かどうかという以前に、それが日本のためになるか、ということを考えるのだ。各人の意識している日本というものがどんなものかというのはそれぞれ違うのだけど、ある意味思考は日本の枠内にある。私はそれをそんなに悪いことだと思わないけれども、そこが限界だとかそこに問題があるという人ももちろんいることは理解できる。また、そういう枠を取り払うことがある意味必要だという主張も理解できるが、結局はそれに代わる枠が日本に作られているかというとないわけで、ICUや国際教養大学の卒業生みたいな人たちがもっと大々的に日本の行政に入って行かない限り、日本の政府が変わっていくことは難しいだろう。

そして東大の一卒業生として思うのは、そういう人たちが本当に日本のことを考えてくれるのだろうか、ということを思ってしまうのだ。これはまあもちろん不遜だとかウエメセだとか思われることなのだけど、私はともかく多くの東大の卒業生たちが日本のことを考えてやってきたんだという自負を持っているからだ。

現実問題としていろいろな改革が政府や行政機構、行政の実際の運用の仕方などに必要なことはものすごくよくわかるし、原発行政の体たらくを見ていると実際のところかなりの部分が張子の虎化してしまっているとは思うのだが、だからこそ欧米や中韓に言われて譲歩したり、改革の主張の裏には日本を弱体化させようという意図があるのではないかという疑念みたいなものが彼らの中にあるのもよくわかる。逆に、その疑念に安住して自らの改革を怠っているという部分もまた否定できないのだが。

まあつまり、靖国にやって来る旧軍人やその遺族といった人たちが、日本という国を背負って戦ったという自覚と、東大の教授陣やその卒業生の人たちが日本のために努力しているという感覚には共通するところがあるということ。

東大の出身者というのはそういう部分がやはり強いように感じる。ホリエモンのような反逆者もいるが、ああいう人も結局は彼なりに「日本を良くしよう」という意識は強くあって、だから結構無謀だったとは思うけれども選挙に出たりするのだし、自分の信念に自信があるからこそそういう方向に日本を変えようとするという意識を強く持っていて、だからこそ衝突するのだ。

ICUの記述を読んでいて、finalventさん自身の方法や方向性がICUでの教育に方向づけられていると同じ程度には、あんまりまじめな学生ではなかったけど東大での教育というか人間の雰囲気みたいなものに私は大きな影響を受けているということがはじめて自覚させられたのだった。あの大学にはたぶん、国家というものを身体に叩きこむオーラみたいなものがあったのだ。少なくともあのころは。


【「学問は英語でやった方がいい」という主張について】

「どの分野でも良いから、何かを学ぶ時には、まず、その分野の名前を英語で調べて、アメリカの大学あるいは高校でその分野に使われている教科書を探すといい。……いずれにせよ、教科書や入門書に限らず、特定分野の知識を得ようとしたら、欧米の学問を基本にすると良いと思う。こんなふうに言うと人によっては嫌がられるかもしれないが、……日本の学問はあまり合理的でないものが多い。特に入門分野においてそうなる。」

finalventさんは育児の時も病気の時もまずアメリカの本を探し、英語の本を読んでいる。ジャーナリズムに関しても、日本のものより欧米のものの方が良いと言っている。まあ上に書いたように私はドメスティックな傾向が強いからそういう言説にはまあそれだけで反発を覚えるのだが、この本を読んで行くと氏がまさにそういう勉強の仕方をして来て現在の博識を形成されているということを知ればなるほどそういうこともあるかと言わざるを得ない。もちろん、だからそういう思想傾向になるんだな、と思うところもあるわけだけど、思想は別にして、私自身の学習経験から言ってもそれはうなずかざるを得ないなと思うところは多い。

氏は大学入学前英語が苦手で、今でも苦手だと書いているが、まあ私はその比でなく苦手で不得意だった。東大は他の教科があるから受かるかもしれないが、英語が出来なければ絶対受からないICUの受験など最初から考えもしなかった。氏は高校時代に英語学や言語学の本を読むことで英語の成績を上げて言ったそうだが、私はそういうことにトライしたこともあったが全然だめだった。今程度に少しだけだが英語が読めるようになったのは最近の分かりやすい予備校教師の英文法解説本を何冊か読んで一から勉強し直してからで、だから予備校の教育力というものはすごいと思っている。

だが文法も自分なりに理解してみて思うのは、やはり教育の仕方が良くないということで、文法も最初からもっと合理的に徹底して教える教育を中学からやってくれていれば、絶対にあっという間に理解できただろうということだ。日本の学校教育における英語教育のお粗末さはあげつらっても仕方ないが文法だけは出来るというのが日本人の強みだったはずで、私はそれさえ身につかなかったのでやはり根本的に間違っているところがあると思っている。"English grammar in use"という本があるが、たとえばこんなのを高校生のころに使っていたら、もっとずっとわかりやすかっただろうなと思うし。

English Grammar in Use with Answers and CD-ROM: A Self-Study Reference and Practice Book for Intermediate Learners of English
Cambridge University Press

大学では歴史を学んだけれども、各分野についての授業はあっても方法を徹底的に教える授業やそれを読めば方法を理解できる教科書というものはなかった。実際のところ、先生にしっかりついて質問し、かなり手間をかけてもらって指導を受けなければ、方法が身につかないようなシステムに日本の大学教育はなっていると思う。少なくとも歴史学は。私は大学時代は芝居ばかりやっていたのできちんと授業に出ず、当然指導もちゃんと受けてないので全く駄目だった。歴史学というものが少しはわかったのは社会に出たあとで大学院に戻って徹底的な指導を受けてからだ。アメリカに行ったとき、教育学部の学生が歴史学を学ぶための簡単な本みたいなものがあって、それを読んでたら自分が知りたくてそれを知るためには院に行くしかないと思っていた事柄があっさり詳細に書いてあって、いったいどうなっているんだと思った。ここ10年くらい、歴史学からは離れてしまっているのでそういう入門書がどの程度整備されたのかは分からないけれども、finalventさんの言うように英語で入門書を探して読んでいればもっと簡単に方法が学べたかもしれないと思うところはある。

結局そういうところで心配になってしまうのは、やはりアメリカ的な歴史の見方みたいなものを受け入れないと学べないのではないかということで、一般的なアメリカ人の歴史観やモノの見方みたいなものはどうも受け入れがたいところがたくさんあるために、「英語で勉強する」ということにすごく抵抗があるのだ。まあそれは私がそういう大学を出てそういう考え方の癖みたいなものがすごく強くなっているということはあると思うし、若いうちならもっと柔軟に受け止めて、でも自分はこの意見には賛成できない、で済んだかもしれない。だから自分としてはその意見を肯定も否定も出来ないのだけど、若い人がもしこの文章を読んでいてくれるなら、自分で判断して選んでもらえばいいと思う。


【意味の記号性と神話性とか】

なんか書いているテーマがひとつになってきてしまったが、いろいろと面白かったところはすごく多いのだ。「仕事が出来て世の中のお金も動かせるようになり、性的にも成熟したとき、若い日とは違う恋愛に出会うこともある。きれいごとばかりではすまない人生の中で、ふと悪に手を染めることもある。友達を裏切り、死に追い詰めることさえあるかもしれない。人間が生きている限り、どうしようもない問題と、その背後に潜む妖しいほどの美がある。それに真正面からぶつかって行くには、文学を深く理解する力が必要となる。」というフレーズには感動した。また「夫婦という性的な関係を自然に受け入れると、個人の自意識と何かずれる」というのも面白かった。私は結婚生活が上手くいかなかったからそういう自覚はあまりないけど、付き合っている関係の時でも一人でいる時と一緒にいるときとでは何かずれがあることは確かで、やはりそういう「性的な関係」に何十年という期間、いたことがないと分からないことってあるだろうなあと素直に思った。あんまりそういうことは考えない方ではあるのだけど。

容姿という問題については、私はわりと若いころに解決していて、それは芝居をやっていた経験が大きいと思う。人前に出て演技をすることで、自分というものは思ったより見られているけれども思ったより見られていなかったりもするということが分かり、自分の容姿というものも客観的に見る癖がついたからだろうと思う。容姿なんてものはいいとか悪いとか悩んでいてもあまり意味のあるものではないし、どうしたらもう少しかっこよくなるかとか考えている方がよほど楽しい。まあ客観視できるとあとはそういう方法論的な問題で済んでしまう。あとは内面からにじみ出る性格みたいなものが反映されるので、小手先ではどうにもならないから、せいぜい自分に素直に生きようとするくらいのことだろう。

最後にひとつだけ書いておくと、言語学を学んだことで物事を考えるとき「それは何か」と本質や解釈を求めるより、現象を眺め、記号と構造という視点から見るようになった、というのが面白かった。

私はどこかで書いたけれども、物事を見るとき本質を理解するということに憧れはあるが苦手で、結局構造と機能という点で理解してそれをもとに行動しているというところがあると思う。そのあたりのところが微妙に感じ方が似ているなあともうところがあると同時にだからこそすごく違うと思うところもある。記号というものはやはり「意味」が付着しているわけで、どうも私はそういうところがポンと抜けているというか、意味を指摘されてそうか!と思うことが多い。私の関心はどう言うふうに出来ていて、どう言うふうにはたらいているか、どこをどう押せばどう反応するか、みたいなところにある感じがする。つまり中身はブラックボックスでも良くて、使い方が分かればいい、という感じだ。

しかし、デリカシーというものは意味に付着しているものだから、意味がちゃんと理解できていないと思わぬところで軋轢を生むことがある。私にとって意味というものはどうも「記号」というような乾いたものではなく、もっと神話的な派手な爆発力のあるものなので、たぶん意味というものには振り回されてしまう傾向があるのだと思う。

finalventさんの冷静な書きぶりはそれだけで魅力的だが、いかに自分がどろどろした熱い何かに突き動かされ、振り回されてきたかが強く意識されてしまう。正直に言って、これほど冷静な(と私が感じる、ということだろうけど)人を見たことはない。私は自分では冷静なつもりなのだけど、全然そうでもないなあと改めて思う。

たぶん私がドメスティックな部分が強いというのも自分がそうやって意味を記号的にとらえると言った冷静で合理的な部分があまり得意でなかったということと関係があると思うし、今思うと結局ニューアカが理解できなかったのもその辺と関わっているんだろう。

その辺は創作の深淵と関わって行くところでもあり、まあまた別のテーマとして考えるべきところかもしれない。

とにかく、さまざまに自分を考えさせられた本だった。

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