長野回りで帰郷/模倣の天才としてのモーツァルト/孤独をめぐる希望と絶望/栗の木を植えたのは

Posted at 13/09/18

【長野回りで帰郷】

昨日。台風も過ぎて、こともないだろうと思いつつ、体調など少し気にしながら、でもだいたい戻ったかなという感じで、朝の仕事をいろいろ片付けたりものを考えたりしてブログを書いてでかけた。いつもよりは少し早目。前の日にやったfinalventさんとのやりとりを少し考えて見たいと思い、丸の内の丸善に立ちよってfinalvent『考える生き方』(ダイヤモンド社、2013)を買った。

考える生き方
finalvent
ダイヤモンド社

それから東京駅で切符を買おうとしたら中央線の特急が16時以降しか表示が出ていなくて、何があったのだろうと思いながら特急回数券を買った。窓口で聞くと、相模湖で土砂崩れがあり、そこに列車が乗り上げて中央線が不通になっていて、たぶん運休になるだろうという話。長野か名古屋回りで行けますかねと聞いたら中央高速バスもありますよと言われ、そうかと思う。iPhoneで検索してみたら1220新宿発に乗れば1518に地元に着くということが分かり、駅の構内でおむすびセットを買って新宿へ行った。

バスターミナルへ行ってみると驚くような長蛇の列。行ってからしまったと思ったが、当然ながらさしあたってのバスはすべて満席で、キャンセル待ちという状態。1210くらいになって窓口に到達して聞いてみると4時まで一杯だと言うので、キャンセル待ちだとどうかと聞いたら1220に乗れなかったらその次のバス、それに乗れなかったらまたその次のバス…になるのだという。これは埒が明かないと思い、結構ですと断って駅に戻った。

改札の案内所でこれこれまで行きたいのだが長野回りで振り替えになるのかと聞いたら、切符を持っていたらそのまま乗れるということだったので東京駅に戻って長野新幹線に乗ることにした。しかしiPhoneで検索してみるとどう考えても5時前になってしまう。新宿になど行かないでそのまま長野新幹線に乗ることをその時点で決断していれば1時間前に着いたのにと悔やんだが後の祭り。結局、1304発の長野行きのあさまに乗る。

どうも同類の人が多かったらしく車内は満席で、大宮から先は立ってる人がたくさんいた。私はその前の列車が出た直後についてそれからずっとホームに並んでいたので一番先に席を確保できたのだが。このコースで帰郷するのは二度目なので車内でツイッターなどしながらぼんやりと関東平野の広さを感じていた。

長野に着いて16分の待ち合わせで特急しなの。どうせ混んでるだろうと思い、ダッシュで自由席へ。すでに窓側は埋まっていたが、何とか席を確保。ゆっくり来た人たちは結局立ち席になった。8両編成で自由席が2両では、こういう状況では座りきれないだろう。松本までずっとこんでいたが、松本でだいたい降りてかなり空いた。私は塩尻まで行き、普通列車に乗り換え。高校生が帰宅する時間で列車は高校生が多く感じたが、たぶん同類の人がいたせいか、大人もけっこう乗っていた。予定時刻より数分遅れて駅に着いた。つくべき時間よりだいぶ遅れてしまったが、何とかたどり着いたという感じ。


【模倣の天才としてのモーツァルト】

天才の勉強術 (新潮選書)
木原武一
新潮社

あさまのなかではあまり本を読む気がしなかったのだが、しなのに乗り換えてから少し本を読んだ。木原武一『天才の勉強術』。モーツァルトを読み終え、ニュートンを読破し、ゲーテの途中まで。モーツァルトの天才は模倣の天才だったというのが面白い。誰かの曲想を引っ張ってきて、それをはるかに素晴らしい作品にしてしまうというのが凄いなと思った。模倣する能力と創造する能力は限りなく近いところにある、というのはそうだよなと思う。オリジナル神話みたいなものの森の中に彷徨いこんでしまうと実際わけがわからなくなるが、というか私などはついそういうものの中に彷徨いこんでしまうことを面白がってしまったりもするのだけど、本当に創造的なことというのは誰かのまねをしているというおよそ創造的でないように見える行為の中で生まれて来ることも多い。二次創作の方がオリジナルよりいい、ということだってあっても珍しくない。昔の話も、原型となった話があってそれを膨らませて傑作になった、なんてことは珍しくはないのだし。音楽におけるそのバージョンがモーツァルトなのだ、と言われるとなるほどと思う。


【孤独をめぐる希望と絶望】

ニュートンの凄さは集中力と、他の人を必要としない孤独の力だ、というのもそうだよなと思った。「孤独は天才の学校である」というのはギボンの言葉だそうだが、孤独であればこそ集中し、ものをつくりだすことが出来るということは確実にある。私も孤独は嫌いではない方なので、このニュートンの話はよくわかる気がする。ただ彼自身、自分の作った理論を発表する気さえなかったというのはちょっとそこまで行くと分からない感じがする。それを発表して人と関わるのが面倒だったかららしいのだが、私なら自分が主導権を取れる状況なら人と関わるのはそんなに嫌いではないので私だったらバンバン吹聴するんじゃないかなと思った。

自分の奥にあるもの、説明するのが面倒なもの、というのは確かにあって、ニュートンにとっては万有引力の法則とか力学の原理みたいなものは実はそういうものだったのかもしれないな、とも思う。

これはfianlventさんが『考える生き方』に書いていた、「私のことに耳を傾けてくれる人がいない」「人に何を行っても通じないだろうなというあきらめ感」みたいなものであって、そういうものは結局自分の中でこなすしかない、つまりある種の絶対的な孤独を自分一人で引き受けざるを得ない、でもそれは本当は誰も同じで、「孤独を通して人の心を深く理解することが人生というもの」みたいなことだということができる。ギンズバーグは「たましいの飢餓の叫びは誰の心にも届かない」と言っているが、まあそういうことなんだろう。自分を理解してもらうことをどこで諦めるか、みたいなところが人生にはやはりあるから、ただでも諦めた先で逆にそれ以上のところまで自分の心を知りたいという人が現れることもあって、まあそういうこともあるから人間は、人生というものは面白いなと思う。魯迅は「絶望の虚妄なること、希望もまた同じい」と言ったけれども、理解されないというあきらめ、絶望を人は多かれ少なかれ背負わざるを得ないけれども、だからと言って人生そんなに捨てたものでもない。希望も絶望もある意味一時的なもので、その時そういう結論に達したからと言って状況が変わったり人が変わったりして急にそのあたりが変わることだってないわけではないのだ。まあ何も起こらないままいのちの方が先に終わってしまうことだってあるわけだけれども。

まあこのブログだって、結局は理解されるかどうかわからないまま書いていて、でもまあ少なくとも書いた方が自分にとってはいろいろプラスになることもメリットもあるから書いている。(マイナスやデメリットもあるかもしれないが今のところあまりよくわからない。つまらない文章を書いて恥ずかしい、という感覚は実はあまり私にはない。恥知らずと言われればそれまでだが、結局あまりそういうところで気を使っていないのだろう。文章としての完成度を厳密に考えていたら毎日ブログなど書けないし、表現上の弱点は多分私の文章にはたくさんあるのだが、そこまで含めて表現だと思うことにしている。今のところ文章を書くのが生業ではないからそこにあまり時間をかけられないということが一番大きいのだけど。)自分がこれは大事だ、重要だ、ぜひ読んでもらいたい、と思って書いている時にはあまり反応がなく、どうでもいいと思いながらさらっと書いたことがすごく読まれてしまうということは実際よくあることで、内面での重要性と読む側の需要のアンバランスというのはまあもういかんともしがたい。

ただ、その時反応がなくても数カ月たってなんかの理由でログにたどりついた人からこの文章のここが良かったと言われることがときどきあって、なんだか嬉しいなあと思うことがある。まあその時にはすでに自分の中での問題の焦点は別のところに行ってしまっているのだけど。

孤独ということで少し書き過ぎたが、まあニュートンにとって孤独な時間というのは何より大事で生産的であったことは間違いない。

ゲーテは逆に驚くほどの文章の生産量を持っていたわけだが、その原動力が恋愛だったというのはまあ有名な話だろう。まだこれは読みかけなのでまた必要があれば改めて。


【栗の木を植えたのは】

今朝はだいぶ冷え込んで、といっても11度だが、夏みたいだったここしばらくの暑さからするとその落差でずいぶん寒く感じた。裏山に草を刈りに行って、また栗をいくつか拾った。西の上の方の道は先週はずいぶん蜂が出てそこから先を刈ることを断念してしまっていたのだが、台風の影響か、今朝は蜂がいなかったので少し先まで刈った。アザミがずいぶん大きくなっていて、高さが2メートル近くなっていた(傾いていたから実際の高さは1メートルくらいだが)のもあり、自然というのはすごいものだなと思う。刈りやすいところと刈りにくいところが先週とはまた違っていて、本当に自然というのは変化して行くものだなと思う。林檎ミントの群落の中に、彼岸花が咲いていた。

部屋の下に生えているコスモスの群落もずいぶん倒れてしまった。花が咲いているからまだ刈り取るには忍びないが、様子を見てまた何とかしておこうと思う。

栗を拾ってきて朝食のとき母と話をしていたら、その栗の木を植えたのは母だったそうだ。祖父の代に出荷していたというのは胡桃の話で、栗はだからここ二三十年の話のようだ。何本もある気がしたが、栗の木はだからその一本だけなのだそうだ。改めて畑に上ってその木を見上げると、確かに頭上には栗の毬がいくつもついていた。だいぶ太い立派な幹になっているので、そんな最近植えられたものだとは気が付いていなかったのだ。

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by Luke Peterson

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