『進撃の巨人』と「壁の外」の風景

Posted at 13/07/29

【『進撃の巨人』と「壁の外」の風景】

いろいろなことが起こる。昨日は夕方散歩に出かけて、靖国神社の方へ行ったのだが、電車に乗った時には降っていなかったのに電車を降りたときには雨が降っていた。このところの天候不順で、例年のこの時期ならただ暑いだけで雨の心配はないのだけど、夕涼みにちょうどいい時間の雨は石畳を滑りやすくして、少しひざに負担がかかった感じがする。

靖国についたころはもう街路灯に灯が入っていて、境内には人もまばらだった。参拝を済ませて九段下から神保町に歩き、ガビアルでカレーを食べて、三省堂で本を見て新御茶ノ水から帰った。

自分という存在は、この世にふらっとやってきた旅人だ、ということを前から感覚として持っていたのだけど、それを久しぶりに思い出した。いろいろやっていて、その感覚が、結局何をやっても自分の周りに何か限界みたいなものがあってその中に閉じ込められているのを感じてしまう、という感覚と関係があるのが分かった。自分という入れ物の中に閉じ込めきれない何かが、自分の中にある。

その感覚を、何かの形で書いていきたい、というのが、自分がもともと小説のようなものを書き始めた元だったなあと思う。それがどういう感覚なのか、説明するのは難しいが、自分の中から何かがほろっと世界の外へ出て行ってしまうような感覚というか。

自分が自由というものに憧れるのは、そういうものと関係があると思う。いつも自分の中の何かが、どこかこの世のほかのところへ行きたがっているというのか。

進撃の巨人(10) (講談社コミックス)
諌山創
講談社

そのやや非現実的な感覚が、自分の中では『進撃の巨人』とどうも共振するところがある。「壁の外へ」行くことが、やはり自分にとって本質的に重要なことだと感じているのだろう。

特に、いまアニメのエンディングでかかっているcinema staffというバンドが歌っている"great escape"という曲がすごくその感覚に近い。

great escape
cinema staff
ポニーキャニオン

「例えば俺が俺じゃないとして お前はお前だと言い切れるのか」
自分が自分なのか、という感覚。ここに居る自分が本当の自分なのか、と。

「俺達は 壁の外で また会おうぜ 地図にない場所で」
行くべき場所は「壁の外」であり、そこに行く地図はない。

『進撃の巨人』も、人間が巨人に食われるという恐怖系のマンガ・アニメだというイメージが強いが、しかしその背後にあるのは、「この世の本質は、自分たちの目に見えていることとは全然違うのではないか」という疑問、問いかけだ。なぜ人類は巨人に負けるのか。なぜ人類は壁の中に閉じ込められているのか。そうした純粋な疑問と苛立ちから、巨人を駆逐し、壁の外へ出たいという主人公。その力を得るために幼馴染たちと訓練兵団に入り、そこで出会った同期の少年少女たちと、壁の外へ挑戦する。しかし主人公は自らが巨人になるという不条理を体験し、しかしその力を人類のために使うと自己を規定しなおすと、(ここから先はアニメの展開上は今のところネタバレになるのだが)今度はその同期の少女や少年たちの何人かが、実は巨人であったという恐るべき展開を示す。自分は人間だと思っていたら、巨人でもあった。同期の少年が、人間だと思っていたら、巨人でもあり、人類の敵でもあった。そして壁の中で、また壁の外で戦うことになる。これから先、どういう展開になるのかまだわからないが、「壁の外へ出たい」「自由になりたい」という原初的衝動が、自分という存在が自分の知っている自分ではなかったという衝撃的な事実を気づかせ、世界は自分の知っている世界ではなかったという世界の全体像を少しずつ明らかにしていく。

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)
岩波書店

そういう事実を、作中の少年あるいは少女たちは、「世界は残酷だ」といい、人と人とのつながりを、「世界はとても美しい」と表現する。これは仏陀が世界は苦であるとともにとても美しいと言ったことを想起させる(ということは以前書いた)が、その仏陀の言葉よりもさらに、その先の世界の広がりを感じさせる。

仏陀はこの世で生きることの苦の原因を探り、それを消す方法を教え、この世で生きていくことを説いている。と自分は受け取っているが、ひょっとしたら仏陀もまた実はこの世のほかの世界への行き方も説いているのかもしれない、とふと思った。解脱とか涅槃という言葉にはそういうイメージがある。輪廻の輪という「壁」の外へ行くこと。

いま大学生に、マンガやアニメをテーマについて何でもいいから書けと言うと、『進撃の巨人』を取り上げる学生が多いのだということを書いている方がいた。彼らがこの作品に何を感じているのか正確には分からないけど、「壁の外へ」という思いに共感し、このたとえばブラック企業やオレオレ詐欺のような人食い=巨人の横行する世界の中で、仲間と共感し、裏切りに怒り、恐怖に耐え、自分がいったい何者なのかという謎に苦しみながら、それでも前に進んでいこうとする作中のキャラクターたちに共感を覚え、ともにこの世界の謎に迫っていくことに強く魅かれるのではないかと思う。

美しさというものも、残酷さというものも、この世の中だけのものではないのだろう。この世からはみ出したどこか壁の外と、そういうものはつながっているのかもしれない。萩原朔太郎はそれを「たましいののすたるぢあ」と呼んだのだろう。彼の「およぐひと」や「遺伝」といった作品に現れるある種の恐ろしさは、ある意味こうした作品と共通するものがあるのを感じさせる。

ライオンと魔女 (カラー版 ナルニア国物語 1)
C・S・ルイス
岩波書店

書いているうちにいろいろ思い出してくるのだが、私が子どものころから『ナルニア国物語』などのファンタジーを好んだのも結局は同じことなのだなと思う。この世の外に、この世よりもっと素晴らしい世界がある。そこはこの世とつながっていて、この世の人の中には、そこに行くことができる人がいる。そんな素晴らしいつながり方をした素晴らしい世界がどこかにある。ナルニアはキリスト教的な世界だから、キリスト教にもまたそういう感覚があるのだろう。

鬼灯の冷徹(1) (モーニングKC)
クリエーター情報なし
講談社

そう、天国とか地獄とか、仏教で言えば極楽や浄土というようなところは、死後の世界だと言われているけれども、本当にそうなのだろうかと思う。現に今でもどこかにあるのではないか、と思ったりする。モーニングに連載されている『鬼灯の冷徹』は(これもアニメが始まるそうだが)そんなことを思わせるものがある。

フラムスチード天球図譜
恒星社厚生閣

『フラムスチード天球図譜』を見ていると、夜空に巨大な神話絵巻を想像した古代の人々や、それを実際に描き出した18世紀の人々の世界を見る目の素晴らしさがよくわかる。どんな方法でもいい、そういう「壁の外の風景」を描き出してみたいものだと思う。

壁の外へ行って、その有様を垣間見てくることを通じて。

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by Luke Peterson

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