イメージの世界とリアルな世界の通行可能性/スピリチュアルなものにどん引きするということとか

Posted at 13/07/13

【イメージの世界とリアルな世界の通行可能性】

今日は久しぶりに雨の音で目を覚ました。そんなにたくさん降ったわけではないが、それでも降ること自体が久しぶりなので、連日の暑さに疲れた身には、ほっと一息つける感じがする。昨日は目が覚めたのが7時を過ぎていたが、今朝は6時前に目覚めた。ようやく週の終わりに来て少し楽になったという感じはあるのだけど、たぶんそれだけではないだろう。

昨日も書いたけれども、もともとこの世に生きることは辛く苦しいこと、ということを認めたら地に足がついて楽になった。もともと意識の操作で自分の気分を上げている部分があったから、それを無理にやらなくなったことでかなり楽になったところがあるのだと思う。

自分の嫌悪感とか無力感とか、そういうものを認め、観察することが大事なのだと思う。それによって、嫌悪感とか無力感とかが自分から剥がれ落ち、客観的にみられるようになるところがある。それらすべてが、地中深くにキラキラと舞い降りて行くさまを見ていると、人の感情というものはどんなものでも、そんなに悪くなものだなと思う。

まあこういうのもイメージのレベルの話なのでこういうところに客観的な話と同列に書いていると抵抗を感じてしまう人がいるのは感じるのだけど、まあまた変なこと言いだしたぞというぐらいで読んでもらえるといいかもしれない。

まあ自分としては、客観的ないわゆるリアルなものもある種のイメージの世界、たましいとか天上、光と闇、みたいな世界もお互いに橋を架けて通行可能なものとして描けるとよいと思っていて、私の書くものの中にそういう二つの要素とその通行可能性みたいなものとを読みとってくれるとそれが一番いいのだけど、まあなかなかそうもいかないんだろうなあとは思う。

私の書く小説というのはもともとそういうもので、たぶん読む人はある意味そういうけじめのつかなさが読んでいて落ち着かないんだろうなあとは思うのだけど、こちら側からあちら側へ、出入り自由みたいなものの面白さというか豊かさみたいなものが描ければいいなあと思っていて、最近どうもなかなか小説が書けないということもあってブログでそういう部分、感じていることについて少し書いてみようかなと思っているところがある。


【スピリチュアルなものにどん引きするということとか】

いわゆる「スピリチュアル」っぽいことをいきなり言いだす人がいると周りの人が一斉にどん引きする、というのは珍しいことではない。それは良くわかるのだけど。以前読んでいたサイトでときどきスピリチュアルな体験などについて書いている人気のサイトがあったのだが、その人がそちら方面に本格的に取り組むようになり、サイトもその観点からつくられるようになったら急激にアクセスが減ったということがあって、そういうものだろうなあと思ったことがある。

私自身、そういう方向とは限らないが、ある方向に舵を切ったらその途端にアクセスが減った、ということが何度かあった。もちろん更新回数が減ったためにアクセスが減ったということも何度かあるのだけど。

卑近な話だが、ブログにアマゾンとグーグルのアフィリエイトリンクを張るようにした時、かなりアクセスが減ったことがあった。まあこれはブログを商業的に使えるかどうかのある種の実験みたいなつもりでやったのだけど、ブログとか個人サイトに「金を稼ぐ」という要素が混入することを毛嫌いする人はすごく多いんだなあと思ったことがある。(稼ぎと言っても微々たるものだし、まあ大体とりあえずレンタルサーバー代と独自ドメイン代くらいは出ている、というレベルのものだが。もうちょっとある時もあるけど。)

アクセスを増やすためには、多くの人が関心を持っていることについて自分なりのきちんとした意見を述べればいい、ということは長い間の経験で分かっているし、それもできれば同じ傾向のことを書くことによって読者を定着させることが出来る。私のようにいろいろなことに関心があって、その時その時で書くことが全然違うというのは、読者にとっては読みにくいブログなのだというのは分かっているのだが、自分の関心が多くの人が関心を持っていることにない時にはやはり読まれにくいテーマについて書くことになるし、昨日アニメのことについて書いたと思ったら今日はややスピリチュアル系のことについて書き、その次の日には政治や社会問題について突っ込んだことを論じたりしていれば、何だそれということにはなるだろう。

人には分類欲というものがあって、この人はこういう人、と分類したくなるのだと思うのだけど、まあ私も敢えて分類されるとしたら「気まぐれ」という感じになろうけれども、「シェフの気まぐれサラダ」ほど匠の技がないらしく、なかなかアクセスが回復できないなあというのが現状だ。

その人の特徴がよく出ていて、その人の技があるきまった分野で発揮されていると読む人に認識されるようになると、読む人にとっては読みやすくなると思うし、だからもともと「向こうの世界から来た人」みたいな印象の人がスピリチュアルなことを書いてもどん引きされないというか、むしろ関心を持たれるということになる気がする。

テレビに出るような人でも、生半可な人がいろいろスピリチュアルなことを言っても反発を食うことはよくあるが、美輪明宏がそういうことを言ってもみんなそういうものだと思う。美輪明宏という人は若い時からこの世のものとは思えない美しさを持っている人で、この人がこういうことを言うのは自然、というか言うべき、みたいな感じさえして来る。世の中にはそういう人もいる。そういうものはかなり素質に左右されることで、私のような普段インテリ臭いことを書いている人間がいきなりそれっぽいことを言い出したらどん引きになるのはまあ当たり前と言えば当たり前なのだ。

つまりまあ、こういうことというのはある種の「危険思想」なんだろうなと思う。オウム真理教事件のあとでヨガの教室がものすごくやりにくくなったということがあったらしいが、わけのわからない言葉で人を引き込んで判断能力を奪い、金をぼったくる、というイメージがあるのだろう。金を奪わないまでも現実感覚を失って人生転落して行くきっかけになるとか、自己開発セミナーとかむやみやたらなポジティブシンキング教に走って周りの迷惑を顧みなくなるとか、まあ考えてみたらろくなイメージがない。

たぶん私は、もともとそういうものにオープンマインドな方で、でもこれはやばいと思ったら付き合い方を限定し、ほどほどにしたり近づかないようにしたり、まあ簡単に言えば免疫があるから、オウム真理教を学生会館で見かけた時はその邪悪なオーラを強く感じてこれは絶対近づいたらだめだとか思ったし、まあ誰でもそのくらいの免疫はあるべきだと思っているところがあって、あまりナイーブにどん引きされたりすると面白くなってついまた書いてしまうというところがなくはない。まあその辺のところを「面白くする」技が欠けてるんだろうなと反省はするのだけど。

まあ、ものを書く、表現する上では、自分にとってのリアルな感覚、リアルな認識を大切にするしかないので、あとはその感覚を出来るだけ面白く、興味がひかれるように書けばいいということになるだろう。

神さまがいるかどうかとか、もののけがいるかどうかとか、いろいろな見方はあっても、そういうものがいると考える方がイメージも感覚も豊かにのびやかになることの方が多いんじゃないかなと私は思うし、ただ、だからと言って自分がリアルに感じる感覚を麻痺させるような入れ込み方をしてはならないと思う。

でも逆に、ナイフが危ないからと言って使わないとか、火が危ないからマッチを使わないとか言うのがナンセンスであるのと同じように、そういう危険性への恐怖に囚われてそういうものを全く排除しようとするのも人生の彩りとか豊かさというもののけっこう大きな部分を排除することにつながる部分もあると思うし、まあ面白がりつつ自分なりの意見を持つくらいのポジションにいるのは悪いことではないんじゃないかなと思う。免疫をつけとくくらいには知識があってもいい、というか。ナイフ一本で人間がどれだけ可能性を開いたかわからないくらいには、そういうことへの関心が人生の豊かさを花開かせることもある。しかしやはりナイフでケガをする、命を落とす人もいる。それだけといえばそれだけのことだ。

まあちょっと自分には、特にポジティブ思考に関して入れ込み過ぎなところがあったんだなあと反省するところがあるので、まあそんなことを書いておこうと思う。

まあこういうことも、いろいろ経験を積んでくしかないところはあるのだけど。全く人間、いくつになっても勉強だ。

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