人は何歳まで作家デビューできるか/感情の泥流/小林秀雄とヴァイオリン

Posted at 13/04/11

【人は何歳まで作家デビューできるか】

何となくうつうつといろいろなことを考える。昨日の夜は疲れてしまって寝がけにろくでもないことを考えてせっかくの睡眠が台無しになりそうな感じだったのだが、しっかり寝たことは寝た。朝起きて資源ごみを出しに行って、帰りにモーニングを買って帰った。内容的によかったのは「ジャイアントキリング」と「特上カバチ!」かな。ジャイキリは応援団、というかサポーターグループ同士の和解というのがテーマだが、そこに子供が絡んで来るのが実によかった。特上カバチも大詰めという感じだが、次回最終回らしい。新しい連載で魅力的なのは「ギャングース」だな。これは場合によっては単行本を買ってもいいかなと思っている。半グレの裏稼業物だけど、ドライブ感があって面白い。

考え事をしたり家の工事の様子を見たり。築40年だけあってあちこちにガタがきていて、簡単な工事だったはずなのが少し話が大きくなっているのだけど、まあ仕方がない。手を入れるチャンスのときに入れた方がいいのは確かだろう。昨日までの忙しさと違って今日はそういう意味では余裕があるのでわりと話も聞けたりした。

公募ガイド 2013年 05月号 [雑誌]
公募ガイド社

昼前にツタヤに出かけて本を物色。『公募ガイド』が「実年齢は問わない時代  人は何歳まで作家デビューできるか」という特集だったので買ってみた。今年の芥川賞で75歳の黒田夏子が受賞した影響はこういうところにも出ているようだ。『もしドラ』の岩崎夏海も「本当に文学に取り組めるのは60歳から」みたいなことを書いていたし、私も焦るよりはある程度の年月を見通したうえで取り組んで行った方がいいのかもしれないと思い始めている。直線的に今すぐ、と言ってもなかなかそうはいかない、そしてフルスロットルで走り続けるのも限界があるし、というところはある。あと何年、と思ってしまうとその分自分に手加減してしまうことを恐れていたのだけど、最近はもっと計画的にやれるかもしれないなあとも思ったりして、ということは逆に今の稼業をある程度はきちんと計画を立てて経営して行きつつやるということも意味しているし、つまりは人生設計をもう少しちゃんと立てようということにもなる。正直、目の前のこと、あるいは目の前数カ月のことの見通しだけでもう10年くらいやってきた感はあるのだけど、もう少し先まで見通してやっていく余裕が少しは出て来た感じもしなくはない。


【感情の泥流】

最近、あまり本を読む余裕がなくなっていて、まずは書かないと、というのがすごく強くて新しいことを入れることを拒絶する傾向があったのだけど、昔のことを思い出して膨大な事実と逆流する感情の泥流みたいなものが堰を切ったように自分の内面に溢れだしてみると、いまさら新しいものを堰止めておいたところで意味がないなという気がし出した。書きたいこと、というけど、書きたいことって果たして何だろうかとか、書きたくないこと、たとえば一番書きたくないことを書いた方がいいんじゃないかとか、そんなことを思ったりする。そんなことを思っているから感情の泥流が氾濫するわけなのだけど。

「豊かな地域」はどこがちがうのか: 地域間競争の時代 (ちくま新書)
根本祐二
筑摩書房

まあ、今までは新しいものを取り入れるために読む、という感じだったけど、今読むならば書くために読む、それも何か自分の中を刺激してそれに誘いだされるものを書くために読む、というような感じになるかなと思う。ツタヤでそのほかにも3冊買ったのだが、それはタブレット特集の『週刊アスキー』と、根本祐二『「豊かな地域」はどこが違うのか』(ちくま新書、2013)、それから平田オリザ『演劇入門』(講談社現代新書、1998)。なんだか一定していないが、自分が触発されそうなものは何でも読んでみる、ということだろうか。

演劇入門 (講談社現代新書)
平田オリザ
講談社


【小林秀雄とヴァイオリン】

『考える人』の小林秀雄特集、杉本圭司君の論考を読む。杉本君は演劇時代の友人だが、最近はずっと小林秀雄研究に没頭しているのだそうだ。全集をもう何度も読み返したとのことだが、私も全集を一通り全部読んだ作家というのはプーシキンしかいないし、手に入る本は全部読む、という気合で読んだのもあとは白洲正子くらいだろうか。全集読破は小林秀雄もトライしようと思ったことがないわけではないけれども、やはりそこまで読みたいとは思わなかったので何冊かで止まっている。杉本君の論考は自分の知らない小林秀雄の姿が描かれていて、面白いなあと思う。

考える人 2013年 05月号 [雑誌]
新潮社

この論考は特に音楽について書いているわけだけど、小林がヴァイオリンという楽器を偏愛しているということは知らなかった。どちらかというと骨董のこととか、つまり白洲正子の視線からみた小林秀雄像の印象が強いので、音楽という視点からはあまり見ていなかった。もちろん『モオツァルト』は読んではいるけれども。小林が若い時にヴァイオリンを習っていたとか、ヴァイオリンを思想を語る楽器ではなくただ単にその歌を聴く楽器だとみなしていたとか、そのあたりの指摘がとても面白いと思った。ヴァイオリンが歌を聴く楽器で、ピアノが思想を語る「近代的な」楽器だとみなしていたので、ピアノとヴァイオリンの合奏曲を嫌っていたというのも面白いなと思った。そんなふうに聴いていたなら、確かに「クロイツェル・ソナタ」を聴いていると頭が変になりそうな感じはあるだろうなと思う。「小林秀雄は、ヴァイオリンと一体になることによって、彼の内なる「近代」を眠らせ、ピアノによって、これに目醒めるのである」という指摘は、とてもいいなあと思った。

だから、小林にとってピアノは思想を語る楽器であるから、ゼルキンの演奏を好み、ルービンシュタインには触れない、という指摘もまたよくわかるし、ピアノで表現すべき音楽として、ショパンやラフマニノフではなくベートーヴェンを上げているというのもなるほどと思う。私は正直、ゼルキンの緊張感に満ちた演奏よりルービンシュタインの華麗な演奏の方が好きだけれども、それはピアノ、あるいはクラシック音楽に思想を見ようという「ドイツ音楽の世界性の至上性」というイデオロギーが私にはないからだなと思う。

まだ読みかけだけれども、この論考は知らなかったいろいろなことを教えてくれるなあと思う。音楽と小林秀雄がお好きな方にはお勧めしたいと思う。

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