生きるために必要な基盤とその基盤自体を成り立たせているもの/絵を描くということ/橋本治という人:生きることの辻褄を合わせる/記念日の意味

Posted at 12/12/02

【生きるために必要な基盤とその基盤自体を成り立たせているもの】

どうも躁というかハイな状態らしく、何をやっていてもどんどんいろいろやってしまう。どうもそうなってしまう心理的メカニズムみたいなものはあるのが分かるのだが、そういうものから離脱するのがどうすればいいのかはよくわからない。というか、朝から晩まで何も予定がない、白紙だという日が一日あるとかなり落ち着くことは確かなのだが、最近そういう日がない、ということもあるだろう。しかしまあ、忙しければ必ずこういう状態になるというわけでもなく、つまりはなんというか基本的に凄く明るく前向きになっているということがあるわけで、そういう意味ではそんなに悪いことでもない。もう少し落ち着きがあった方がいいかとは思うが、元気はあるし、ものが考えられないわけでもない。それも、スタティックな考え方でなく動きながら考える、ダイナミックな考え方みたいなものが少しずつ戻ってきている、ということはあるのだろう。

自分にとってみれば、創作的な世界、小説世界が自分の中から流れ出るような状態にあるならば、自分の身体的な状態がダイナミックであってもスタティックであってもかまわない。毎日やることがあって大変だという状態にしても、父や母が入院している頃はそうだったわけだし、また勤めていた頃はやることがない日というのはまあほとんどなかったし、もっとなんかお先真っ暗な感じで、でも毎日とにかく動いているという感じで精神的にも肉体的にも粋をしているのがやっとという感じだった。仕事を辞めてからというのは本当にまったくやることがない日というのが実際にかなりあったので自分の中でちょっとそういう状態に慣れて過剰適応しているところもあったのだろうなと思う。

そういう不自然なダイナミックさと不自然なスタティックさみたいなものしか経験していないということもあって、今の状態を自分の中でどう位置付けてよいかに迷っている、ということなのだろうと思う。昔からすごくハイな時期もあり、すごくローな時期が続いたりもしたが、今はそうはならないだろうなという感じがある。昔は自分のことで精いっぱいだったから、また精一杯な癖に人のことを考えたりしてしまう、いわゆる「まず自分の頭の蠅を追え」的な状態だったからハイである時に限度をつけられず、ローである時に立ち直るきっかけがつかみにくかったんだろうと思う。今は自分がローであっても自分が必要とされる場面がすぐやってきたりしてそうなると立ち上がって動くことになるし、自分がハイであってもこのくらいにしておこうという物理的限度が立ち上がってきて、いずれにしても現時点における「正常なルート」に自分の状態を戻すビルトインスタビライザーというかホメオスタシスというか自動安定化装置、恒常性維持機能のようなものが内的にも外的にも働きやすい感じになっている。

まあそういうふうに生きていくために必要なことをしっかりとやることが出来ている状態になっているというのは大事なことで、まあそれが生きることの基盤というものではあるのだが、でもその基盤がどのようにして成り立っているかというと、私の場合は創作が出来ている、自分の書きたい自分の奥にある小説世界を流出させ、作品にすることが出来ている状態だということが大きいなと思う。

なんというか書いてみて思ったが、というかそれは昔から感じていたのになかなかうまく外に出すことが出来なくて呻吟していたのだが、自分の中には途方もない書くべきものがあって、やはりそれを書かないことには平常ではいられない、居ても立っても居られないというところがあるのだ。それは個人的な体験とか想像力というものではなく、やはりある意味宇宙とつながっていてそこから発せられる何かを自分が外に出さなければならないという感じがあるのだろう。もちろん書かれるものは私という人間、私という創作者、私という作家の持てるだけの技能、工夫する力、表現をより良いものにしていく力を最大限に使って書かれているのだが、書くべきもの自体は私の中にあるのかもしれないし、つまり私の内的な宇宙からきているのかもしれないし、もっとほかのところからきているのかもしれない。しかしそれはアートマンとブラフマン的に本来は同じものかもしれないし、まああんまり書きすぎても自分にとっての切実性の在りかが不明確になるといけないから表現は控えめにしておくものだと思うのでこんなところにしておくが、まあとにかく書くべきものは際限なく出てくるという状態にある。今のところ。まあだからこそハイになっているのだし、またハイだからこそそう感じているということでもあるだろう。


【絵を描くということ】

まあそれはともかく、昔の自分と今の自分とどこが違うのだろうと思うと、というか自分が今どういうふうに考えて物事に処しているかということを考えてみると、つまりはいろいろなこと、いろいろなものが自分の前に現れたり自分の中に現れたりするときに、それにどう向き合うか、それをどう動かしていくかというようなことについて、構図を持つということが大事だなと思うようになっているのだなと思った。『ナニワ金融道』で印象に残った言葉で、「絵を描く」という言葉がある。つまり、たとえば地上げの時などにこことこことここを地上げしてまとまった土地にして商業ビルを建てれば大儲け、とか、あるいは事件ものなどで捜査機関がこれこれこういう動機でこういう方法でこういう行為をしたからこういう結果になったという全体像を描いて捜査し裁判に臨む、みたいなことについて「絵を描く」という言葉が使われているのだが、つまりある一定のビジョンを持って目の前のことにあたるということだ。若いうちは体当たりだからとにかく試行錯誤で当たって砕けろでそれでいろいろな経験をして世の中や世間や取り組む対象に対する知識や経験則を得ていくわけだけど、それはそれで大事なのだが曇りない目で自分の生きる姿勢、生きる方針、生きる方法、さしあたって目指すもの、などについてある程度考えておき、また人との交渉の時も最終的にどの辺が落としどころになりそうかとか、人の話を聞いたり相談したりしながらそういうビジョンを作り、あまり固定的にしてしまわない方がいいにしてもとりあえずのビジョンを持って事に当たっていく、まあそういうことを「絵を描く」という言葉で表現しているわけだ。

若い頃より慎重になったということがあるとすれば、つまりどういう絵を描けるかが見当がつかないうちは手探りで進むしかないということであり、思い込みによる硬直した独りよがりの絵にすがることをすごく気を付けるするようになっているということだろう。そして少しずつ絵が見えてきたら絵を描けているところまでは進んでみて、またその見晴らしで前に進むための絵を描く、というようなことが以前に比べてできるようになっているのだろうなと思う。自分の人生について全部そんなにちゃんと絵が描けているわけではないし、逆に言えば常に絶対的な手探り状態で前に進んでいる創作という本当の意味でビビッドな生があるからこそ描いている絵の価値とか意味とかいうものを自分なりに判断することが出来るのだろうなあと思う。

最近なかなかブログが長文にならないという傾向があったが、久しぶりに少し長くなってきた。やはり自分に起こっていることを題材にして、それに向かい合う時間と状況が私自身の主体の状況を含めてちゃんとあるときにはそれなりに考えも進むしものも書けるのだなと思う。


【橋本治という人:生きることの辻褄を合わせる】

橋本治と内田樹
筑摩書房

私は橋本治が好きだ、というかいろいろな意味で師匠というかこの人には共感したりこの人のやり方、考え方を真似たりすることが結構ある人なのだけど、東京に戻ってきてなんとなく本棚の『橋本治と内田樹』(筑摩書房、2008)を読んでいたらやっぱり面白いなと思った。橋本に比べると内田の方がはるかに理屈っぽい。

「現実はあまり面白くないから未来を見てないとどうしようもないから未来で遊んでいるという、そういう妄想的なところはありましたね。…だから、基本的に俺はフィクション作家なんだろうなと思うんです。だって理屈はどうでもいいんだもん。辻褄が合ってしまえば、理屈があってなくてもいいじゃないかという、…和歌ってそうでしょう。つながってりゃいいわけじゃないですか。…掛詞があってというようなものだから、掛詞が正確にはまっているのかいないのか、そのはまっていない美しさも音のものだからあるわけじゃないですか、和歌なんて。うまく続いていれば拍手が来るというもので、論理的にはどうでもいい。」

「でもなんか突然、「やっぱり、自分、生きているうえでこうこうこうじゃなかったら変だよな」という、もだしがたい情熱みたいなものも生まれちゃうから。書いちゃうと、書いたものが世界のどのようなところに位置づけられるかは、別に自分の問題じゃないじゃないですか。……要はこれを書いていいということだけが重要なんです。だから終わっちゃったものに関してはどうでもいい。あれをやったことによって、次にこれをやれるという、次をやってもいいということだけが、自分にとってもすごく重要なんです。」

共感するから描いてみたということと同時に、橋本のように若い頃から売れていたから、というか文筆で食えていたから自分をあえて位置づける必要がないが自分はそうではないからとりあえず作品の世界の中での位置づけを考えて売り込むポイントも見つけないとなあ、みたいなことを考えざるを得ないところもあるけど、まあそのポイントを抜きにして考えれば言っていることはよくわかる。本当は自分の位置づけなんか私も考えたい性質ではないから誰か位置づけてくれよおとは思うのだけど、まあまずはとにかくいろいろな人に読んでもらわないとということに戻っていくわけなのだけど、まあつまり私なんかも言いたいことがあるというよりはそういう抽象的なものではなくて、たとえその抽象性に近いものであってもやはりある具体的なかたちをとって降臨してくるものがあって、それはある種の美しさというか、そういうものにおいての辻褄が合っていればそれでいい、みたいなところがあるし、やっぱりそういうことをしていないまま自分が自分であると言っていてはいけないんだというか、それこそ自分という人間の辻褄が合わないだろう、みたいなところが自分にもあって、そういうところがすごく共感するし、ああ先を行っている人なんだなあと思う、というところが、この橋本という人にはあるんだなと思う。


【記念日の意味】

あともう一つ書こうと思ったのは、記念日ということの意味、あるいはクリスマスとか誕生日とかのイベントの意味。なんかそういうことにどういう意味があるのか、あんまりよくわからないところがあったのだけど、つまりはその日は何か大事なものを再確認するための日、あるいはイベントだ、というところに意味があるのだと思った。毎日毎日、そういう大事なものを意識して生きているんだから大丈夫だよ、と思ったって、たとえ本当に思っていても、もう一度それを改めて確認することに意味があるわけだ。毎日ちゃんと商売をやってても棚卸で在庫を再確認するのと同じことで、大事なものを再確認し合うということに意味があるわけだ。まあ指さし確認みたいなものだし右見て左見てもう一度右見て横断、みたいなものなのだ。

だからそういうものを重視するかどうかは個人差があるのだけど、しかしまあそういうことの意味というものを理解して重視するかしないかを判断するということと、理解できないまま放置するということでは状況が変わってくる可能性があるから、まあ一応そういうことも忘れないように気がついたときに書いておこうと思う。

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