読んでいる本とかマンガとか/キャンセル待ちの思想/解放から表現へ/共振する身体性・精神性

Posted at 12/11/09

【読んでいる本とかマンガとか】

昨日今日と読んでいるのが羽生善治『直感力』と茂木健一郎『挑戦する脳』。それから昨日発売の『モーニング』は「Giant Killing」を何回も読み返した。

今日は『週刊漫画Times』で「ガズリング」、それに「レンアイガク」の最終回。『ビックコミック』は「天智と天武」、「ゴルゴ13」、あと特殊部隊ものが2本。午前中遅い時間になってツタヤに本を物色しに行き、『別冊マガジン』の発売日であったことに気づいて買った。

別冊 少年マガジン 2012年 12月号 [雑誌]
講談社

印象に残ったのはもちろんまず「進撃の巨人」。12月頭に第9巻が出るとのこと。それから「悪の華」の高校生のたまり場が思っていたのと違う感じでちょっと残念。女の子が「本が好きなのを知られたくない」と言っているのがふうんという感じ。さすがに高校生のころは本を読むということ=異端、ということはなかった。ちょっとこの辺が分からないかな。何というか別マガは男子中学生や高校生くらいから見た切ない青春、みたいなものを描く作品が多くて、まあやっぱり胸キュンではある。話の筋自体は中二病以外のなにものでもないという感じのものが多いが、まあそういうものに慣れて来ると意外といけないこともない。

レンアイガク 1 (芳文社コミックス)
竹下けんじろう
芳文社

それからないだろうなと思って探した『レンアイガク』の単行本1巻を発見。1巻の途中からは読んでいるので完結になる2巻はもう一度読んだ部分ということになるが、まあいいだろう。


【キャンセル待ちの思想/解放から表現へ/共振する身体性・精神性】

直感力 (PHP新書)
羽生善治
PHP研究所

今朝は考えるべきテーマが4つあるなあと思っていた。一つ目は『直感力』に出て来た「キャンセル待ち」という話。より大きなのチャンスが来ることをじっと待つ、相手が(あるいは先任者が)キャンセルしない限り自分の番は回って来ないが、そういう準備をしておかなければそれが実現することもない、という話。とりあえず可能性に賭けて、その準備だけはしておくという状態だという。「これは案外大切なことだと思う」と羽生さんに言われてそうか、そうだなと思ったのだった。「今までなかったことが突如として現れることは可能性としてかなり低い」から、もしかしたら起こるかもしれないことに対して準備だけはしておく、ということだ。「劇的な逆転」や「忍耐強い粘り」みたいなものを念じて「降って湧いたような大きな力」で一発逆転を狙うという思考に囚われたりしてしまいがちだ。

考えてみたらそうだが、今まで影も形もないことがいきなり起こることはあんまりなくて、今まで自分のまいてきた種のうちどれかが知らないうちに収穫期を迎えている、というこの方が起こり得ることであるわけだ。実際には人間は「一つ状況が変わったら得られる」というようなものはけっこう持っているはずなのに、それに対してちゃんと準備をしていなかったために逃がしてしまう、ということはないことはないんじゃないかと思う。そう考えると「キャンセル待ち」という考え方はかなり真っ当だし、賭けるとしたらそういうことに賭けた方が収穫できる可能性は高いだろう。しかしそれはやはり賭けであることには違いなくて、外れる可能性だって高いことは承知したうえででなければならないけれども。

私は人生の上でわりとそういうことが起こりやすい人間だなあということは思う。だいたいいろいろな場面で二番手につけるということが多い、というか無理に一番になろうとはあまりしないのだけど、その一番の人が「キャンセル」することでトップに立つ、みたいなことが多かった。必ずしもそれを目指しているわけではない場合でもそうなることが多いから、それはある種の素質とか持ち味みたいなものなんだろう。「この人がいなくなっちゃったら、まあお前だよな」みたいな感じで納得もされやすいからその地位に立つこと自体にはあまり波風が立たない。いろんな場面でそんなことが多かったなと思う。

私は四柱推命でいえば「正官」で、長男・跡継ぎの星なのだが、「キャンセル待ち」というのはまさにそういうパターンのあり方なんだなと思う。自分でそれを目指して行動しているわけではなくてもそうなることもあるというのは上に書いたとおりだけど、逆にやっててもなかなかそういうところに行かないと続けるのが面倒くさくなることがある面もあるなあと思ったり。思ったより本質的にそういう人間なんじゃないかと思うところがあって、「キャンセル待ち」についてもう少し考えを深めたいと思っていた。

二つ目は「ラッポールを絶つ技術」という問題。これは整体的な問題で、オペラを見に行く日に孫娘に浅草に行きたいと駄々をこねられた野口晴哉先生がどう対処したか、みたいな話を読んでいて面白いなと思ったこと。人に元気を取り戻させたりするためには大事な技術だなと思うのだけど、私はまだそういうことが思い通りにはできないなと思うところがあって、そういうことが自由自在にできるようになるともっといろいろな人を元気にできるのになと思ったりしたのだ。

三つ目は起きた時に感じた、右肩に力が入り続けて抜けない状態だということの意味。私は方法論的なこと、あるいはもっと具体的にどういうものを選択するかというようなことを考えているときはわりあいすいすいと思考も行動も進むのだが、本質的なこととかを考え始めると流れが止まったり妙に肩に力が入ったりすることが多い。生きるために考えるのでなく、考えるために生きるんだみたいな本末転倒状態を生みだしたりするのはそのせいなんだろうと思うが、肩に力が入っているということはたぶん必要以上に本質的思考に入り込み過ぎている部分があるんだろうなと思ったということ。このへんのところはさじ加減が微妙なのだが、まあ「好きなこと」より「正しいこと」を優先しはじめたりすると危ない。「正しすぎることはどこか間違っている」という『平清盛』に出て来た名言を拳拳服膺しないとと思うことにしてはいるのだが。

四つ目は昨日ツイッターで怒涛のようにツイートした身体論・演劇論について。私にとってもともと演劇は身体の解放のための手段みたいなものだったのだけど、途中からそのことより芝居作りの方が面白くなって解放より表現の方に関心の重点が移って行き、それがさまざまに変化しつつ今の文章による表現に至っているという過程が自分なりに見えてきたことがよかったなと思う。たとえば悟りというものが精神の真の解放であるのならば、身体も解放された状態になっているだろう、的な感覚があって、19~20歳のころはそれを強く求めていた。その頃からものを書いてはいたけれども、それは自己解放のための手段であって、表現が目的というものではなかった。まあ今でもそういうところは読んでの通りあるのだけど。

しかし自己解放のための身体メソッドというのはやっているうちにある種の行き詰まりが生じて来る。これは多分座禅を組んで心がすっきりしたりすることと似ていて、その時はいいんだけど結局日常に戻ったらまた身体的なこわばりや精神的な囚われが生じて来るのと同じことで、解放だけを目的にそういうことを続けたところで「何物にもなれない」ということが一番大きな問題であるわけだ。ただそういうことを続けることでより共振性の高い身体、共振性の高い精神、つまりより純粋な、素直な精神状態や身体状態を実現するということはなくはないだろうと思う。

ただ問題は、そういう身体メソッドや精神修養メソッドというのもある種のイデオロギーに基礎づけられているということで、あるところから先はその背後にあるイデオロギーを受け入れられるか否かということになって行きやすい。つまり解放はされるかもしれないが、され方が一つしかないというか、人間というのは本来みんな違うもの、そういうポリフォニー的な存在なのに「理想像」とか「あるべき姿」みたいなものが生じてしまってそれに「近づく」競争が起こる、という実に笑えないパラドックスが生じてしまうわけだ。まあ私は状況の中で否応なく、あるいは自ら選択してそういう場に自らを置いた期間が一定あるのだけど、基本的にどれもこれも息苦しくてずっと居ることはできなかった。まあそういうことがわりと苦にならない人たちも世の中に入るから、そういう人たちはそういうところにいたら幸せなんだろうなとは思う。

身体論から芝居へ、という方向性が実に奇跡的に私自身にとってよかったのは、「解放から表現へ」というベクトルがそこに存在したということによる。表現のためには確かになにものにもとらわれない精神が必要で、そのためにはある意味での解放がその過程にあった方がさまざまなものに対する共振性を得る上ではよいことに間違いない。まあそれは私の経験からそう思うということだが。解放一辺倒の息苦しさから私を救ってくれたのは、間違いなく表現の喜びだった。最初は自分の解放にしか関心がなかったのだけど、仲間と芝居作りを続けて行く過程の中で思いもよらぬ表現に次々と出会い、また今までこの世に存在しなかった様々な表現が誕生していく過程に立ち会うことが出来て、本当の意味での感激を感じた。解放とは真のニュートラルを目指すことではなく、今まで存在していなかった自分をこの世にあらしめることなのだ、ということに――そういう言葉で当時は表現できなかったが――気がつくことができたのだ。

しかし気がついたからと言ってすぐできるようになるわけではないし、表現を身につけて行くということが一体どういうことなのか、当時は全然わかっていなかった。まあ分かっていなかったからこそ素直に何でも吸収できたのだということもあり、女装の役が回ってきたら歌舞伎座に玉三郎を見に行ったりとか、多少ピントがずれていてもかまわずに何でも貪欲に吸収しようとすることが出来てそれはそれでよかったなとは思う。文章表現も詩や戯曲からスタートしたがなかなか思い通りのものができず、また戯曲が自分なりに書けるようになってもそれが役者の身体性から離れることがなかなかできなくて文章がそういうものに依存したものになってしまうというジレンマがずっと続いた。文章だけで独立した世界が作れるんだという手ごたえを感じるようになったのはここ数年であって、芝居をはじめてからはもう30年は経っている。

まあ私は共振する身体性・精神性みたいなものをやはり死ぬまで持ち続けたいと思っているところがあるから、まあ簡単にいえば精神的にも身体的にも頑健というわけにはいかない。頑健であるということはどこか鈍いということだから、まあそれはそれで仕方がない。ただ前に書いたように何にでも共振すればいいというわけではないから、適切にラッポールをつくりだし適切にラッポールを絶つ技術が必要だなということは強く感じている。マイナスの波長のものに共振をはじめたらそこですぐラッポールを絶たないと大変なことになったりすることは多いわけだし。理想でいえばこちら側がプラスの波長を発信することで周りに影響を及ぼしていくことではあるのだけど、周りを感じるためにはいつも受信機を開いていなければならないところはあるわけで、まあその兼ね合いだということになる。

あと、共振する身体性・精神性を持つということは、「正論を持たない」、ということでもあるんだろうと思う。プリンシプル=原理・原則は持たないといけないと思うが、正論を持たないというか、正論という形で自分の精神性を固める、強固な壁を作るということは避けたい。正しいからやる、間違っているからしない、ということではなく、好きだからやる、やりたいからやる、のがいいと思う。つまり、みんなの力を伸ばす、人を自立させる、というようなことが「正しいからやる」のではなく「やりたいからやる」でありたいということだ。というかまあ、そうやってるんだけど。

そう思っておかないと、身体の解放を目指すとか言ってても「解放されることが正しい」みたいに思っていると(実はけっこうそう思いがちだったりする)そのメソッドを実践しているうちに生じた息苦しさが説明がつかなくなってしまうし、それに耐えられない自分に絶望したりしてしまう。「自分を解放するのが楽しい」でやって行くと、息苦しさを感じた時点で「なんかおかしい」と思えるわけだ。まあ実際には私の場合は両方がアンビバレントに存在していて、顕在意識では正しさを求め、潜在意識では楽しさを求めていた。結局潜在意識が勝つことが多くて、そうすると意識的な一貫性が途切れてしまうからその都度落ち込むことになる。正しさより楽しさ、というのを認めることができるようになったのは実際ここ数年のことだと思う。

つまりその持つべきプリンシプル、原理・原則の正しさは頭で考えた正しさではなく、あくまでもそれを自分た楽しいと、やりたいと感じられるかどうかだ、ということになるんだと思う。まあそのためには自分を徹底的に突き詰めて身体的にも精神的にも一度解放される過程を経て、本当にニュートラルな時の自分が何を欲するのか、ということを確認し、把握・掌握し、そういう意味での自信を得た方がいいとはいえるのだけど。

ああ、何か書いてみて良かったなと思うのは、それぞれがつながってる気がしたんだけどそれがよくわからなかったからで、だいぶ自分自身に対する考察が深まった。まあ結構楽しいなと思う。

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