奈良美智展続き/マンガさまざま/平原演劇祭余波:愛多くして慎むこと多し

Posted at 12/08/30

【奈良美智展続き】

昨日は朝からずっと小説の直しをしていたので、全然ブログを書く暇もなく、ツイートもほとんどできなかった。それでもいろいろちょっとしたものを読んだり考えたりしたことは多い。というか、こうして小説を書いたり、ちょっとした本を作ろうとしたりしていると、いろいろな言葉や文章、情報や思想、考え方や天啓がばすんばすん降ってくる感じがする。やはり物を作るということは大事なことだ。ある意味天につながって、天からも何かのコンタクトがあるということなのかもしれないと思う。

家に帰ったら奈良美智が表紙になった『AERA』があった。先日母が東京に行った折、同行した叔父が電車の中で読んでいたのだという。叔父が先に降りたので忘れて行ったと思って取っておいたらもういらないと言っていたのだそうだ。5ページの表紙インタビュー、34~36ページのインタビュー記事。作品の写真も何枚も載っていて、わりとお買い得な状態だなと思った。インタビュー自体読んで面白いものではあるのだけど、今考えているテーマとかぶり過ぎてあんまり素直に読めないところがある。でも、「何を観てほしいとかはないけど、少ない人数の中で見てほしいなとは思います。……作品と同じ空間の中に入ってほしい。そのための空間を作ったつもりです。」というところはそうだろうなと思ったし、本当にそういう空間だと思っていたので、やはり奈良自身が相当手を入れた展示になっているんだなと思った。というか奈良自身の体温みたいなものというか、動きや思考のあとというか、つまり立ち上がってすぐのまだ凹んでいる座布団の形とか半開きにしてしまう癖のあるドアの開き方とか、その人自体の身体性みたいなものが強く感じられる展示だったと思うし、実際そういうアーチストなんだなと思った。実際月曜日の夕方というおそらくは相当空いている時間に見られたことはラッキーだったなと思う。行く機会があればもう一回行ってもいいけど、でもおそらく次回は前回ほど空いてないだろうなと思うとどうしようかとも思ってしまう。


【マンガさまざま】

おとといの夜仕事が終わった後ゼロサムの発売日であるのに気づいてTSUTAYAまで行って買ってきて「ランドリオール」を読んだ。今号は次の段階へのつなぎの週だが、メイアンディアの名探偵ぶりが何かを明らかにしそうな事態。またリゲインがDXに言っていることもいろいろ気になる感じがあり、伏線の種をいろいろ播いているという感じだなと思う。今朝はモーニングを買ってきて読んだが、今週はどうも感動ネタが多い。ジャイキリもそうだし『ピアノの森』もそうだ。『宇宙兄弟』もそうだし柳沢教授もそうだった。『チェーザレ』もそうかな。いろいろと自分の考えていることとかぶって来るところもあってまたそこも少し読みにくかったり。


【平原演劇祭余波:愛多くして慎むこと多し】

生きるということはどういうことだろうか。人はなぜ生きているのだろうか。ひとことでいえば私はそれを、宿命だと思っていた。いや今でも思っている。人がこの世に生まれてきたのは自分の意志ではない、いや意志だという思想もあるけれども私にはわからない以上、考えても仕方のないことだ。そして否応なく、死ぬまで生きる。人はなぜ生きるのだろうかという答えは長い間でなかったが、山が山であり、空が空であり、樹木が樹木であり、鳥が鳥であるように、人間は人間なのであるから、死ぬまで生きるのが人間の宿命であり、そのいのちというものをフルに生かして死ぬまで生きなければならない、と思っている。生きることは宿命であるから、疑う必要がない、というか意味がないと思っている。人間は生きるためのエネルギーを持っていて、それが使い果たされたら死ぬのだけど、この身体も精神も同じように長持ちさせることによって身体や精神の機能的な面もエネルギー的な面も時を同じくして生命を終えるのがありたい姿だと思う。

そしてそのエネルギーとは何かというと、愛なんだなということを今日思った。愛ある限り人は生きるというのは、エネルギーがある限り人は生きるというのと同じことで、愛が人を動かす力を持つというのは、お金や権力が人を動かす力を持つということと同じことで、と言うと語弊を生むだろうがつまりエネルギーであるということにおいて愛と権力とお金は同じものであり、だから愛は権力やお金と親和性が高いのだと思う。愛ゆえにお金を倹約したり権力を欲したりすることも多いだろうし、愛を知らないが故にお金や権力を欲しがることもあるだろう。いずれにしても人は生きるためにはエネルギーを必要としているし、エネルギーを得るために生きているという面もある。人の存在とエネルギーとが分離した時がすなわち死ということになるのだろう。

「愛多くして為すこと多し」という言葉と、「愛多くして慎むこと多し」という言葉があり、これはいずれも野口晴哉夫人の野口昭子が書いていることだけど、前者がバイオリンの鈴木メソッドを生みだした鈴木鎮一の言葉、後者はそれを聞いた野口晴哉の言葉だ。

愛ってなんだろうと思う。愛は知ることを望むが、必ずしも理解することを望まない。宿命を知るということは、愛の働きではなく理解の働きだろうと思う。愛は知っても知ってもきりがない。愛しても愛してもきりがないのと同じだ。理解は、その時その時で一段落がある。愛は一段落がなく、走り続けているか止まってしまうかどちらかしかない。人はよく理解されたいというが、それは不正確なのであって、本当は知ってほしいのだと思う。知ることは愛の行為だが、理解はある意味冷たい部分もある。自分のこんなところを理解されては困るというところはあるのではないか。友とはその人を知る人のことである、という言葉が孔子にあった気がするが、人は己を知る人のために死ぬ、みたいなことだったかな、そうなるとそれは孔子じゃないだろうな。

高野君の芝居のレビューをいろいろ読んでいてけっこう衝撃を受けたのがあって、まあつまりこういうことがその人を知るということ、その人を愛するということなんじゃないかなと思うレビューであったわけだ。その点に置いて自分の書いたレビューは負けてるな、ということに何だか凹んでしまったり。でも多分それは、その人と自分の生き方のスタンスの違いみたいなものに起因する、ある意味どうしようもないことだなとも思ったので、つまりは自分自身のスタンスを疑わざるを得ないような心境になったりもしたのだが、どういうスタンスで生きるかということもまたその人の宿命みたいなものであって、愛というエネルギーの使い方表し方がやはりその人とは違うし私はそういうものがあまりうまくないということは確かだなと思ったのだった。

愛する、ということを突き詰めて行くと、この人を愛するが故にこの人が存在するこの世界を愛する、というふうになって行くだろうし、あるいは特定の人がいなくても世界に対する愛というのを確固として持っているマザーテレサみたいな人もいるだろう。この世界がこの世界であるということはどういうことなのか。今ある私たちの世界を愛するということなのか、それとも三千世界すべてを愛するということなのか。先のレビューを読んでいて、この人はこの世界を本当に愛しているんだな、ということを強く思った。そして私はどうだろうと振り返ってみて。

愛があれば頑張れる、というのはある意味すごく素直なことで、子どものいるお母さんとかが頑張ってお金を貯めたりあるいは反原発運動に頑張ったりしてしまうのはすごく素直な愛の現れなんだろうなと思う。まあそれはそれである意味眩しさも感じるのだけど、やはり自分はそれだけではダメだなと思うし、その愛の使い方が上手く行かず変に暴走してしまうことがいままでとても多かったので、そういう思いに当たった時にはいろいろと考えることがある。だから「愛多くして為すこと多し」というのはよくわかるのだけど、そういう時だからこそ慎まなければいけないこと、愛しすぎないようにしなければいけないことがあるのだという言葉を手放してはいけないと感じるわけだ。

ただ、そういうセーブが自分の限界を作って来たこともまた確かであって、いかに暴走しないように自分のやるべきことをやって行くかということは大事なことだと思う。冷静に物事を見通し、なおかつ自分の感覚を信じて行動すること。愛はエネルギーだから愛がなければ行動できないけれども、愛はエネルギーだからそれに自分の目が曇らされることがある。迷いを常に推進力に昇華させながら、動き続けて行くことが重要なんだろうと思う。

そんなことを考えていた。今日も暑いけれども、予報によれば長野県は夕方から雨が降るらしい。

それにしても、誰に向けて書いている文章なんだろうな、このブログの文章って。

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