映画『いわさきちひろ―27歳の旅立ち』を観た:いわさきちひろの子どもたちの支配を拒否する強靭さ

Posted at 12/08/14

【映画『いわさきちひろ―27歳の旅立ち』を観た:いわさきちひろの子どもたちの支配を拒否する強靭さ】

久しぶりに映画を見に行った。いわさきちひろの評伝映画、『いわさきちひろ―27歳の旅立ち―』(海南友子監督作品)だ。この映画を知ったのはスタジオジブリの広報誌『熱風』の8月号でこの映画の上映を記念したいわさきちひろ特集が行われていたからだ。

いわさきちひろについてそんなに何かを知っていたわけではないし、そんなに興味があるわけでもない、つもりだったが、考えてみたら大学生のころには練馬のちひろ美術館に行っているし、安曇野のちひろ美術館も多分、行っている。(あれ?記憶が定かでない)絵本画家に特別の関心がない私にしては、何か気になる存在であることは確かだ。子どものころから、日本の絵本作家にはそんなに関心がなかったし、それでもいわさきちひろだけは何か特別のものを感じていたんだと思う。それがなんだったのかはわからないが。

ゆきのひの たんじょうび (至光社国際版絵本)
いわさきちひろ
至光社

大学生のころには、共産党の代議士・松本善明の夫人であったことは知っていた。だからと言って社会主義リアリズムでもないし、「前衛的」な表現でもない。それなのにこの人の絵をどこかで強く認識していたのは、自分にとっていわさきちひろの絵こそが「子どもを描いた絵」のデフォルトになる絵であったからだなと思う。鴨の雛が最初に出会ったものを親だと認識してしまうような「刷り込み」が、たぶん自分にはあったのだろう。

余談だが、私は割合そういうことがあって、長い間ハルジョオンを「はな」というものだという認識が抜けなかった。ユリやチューリップのような派手な花でなく、なぜハルジョオンを「はな」と認識していたのだろうか。多分、名前の分かるような花は大人もなんという名前だと教えてくれるが、幼い私にハルジョオンの名前を聞かれた大人が分からずに「これは花だ」と教えたのではないかと思う。刷り込みというのは怖いものだ。

午前中から書いている小説の冒頭部分を手直しして、調べてあった上映時間に合わせて作業を切り上げ、銀座に出かけた。11時35分から有楽町のヒューマントラストシネマ。丸井の横のビル4階の小規模なシネコン。行ってみていかにもそうだなと思ったが、観客は年配の方が多く、車椅子の子どもなどもいた。座席は8割がた埋まっていたというところか。地味なドキュメンタリー映画としては、入りは悪くはないのだろうと思う。96分間。

内容は、『熱風』で読んでいたこともかなりあったし、知らないこともかなりあった。ちひろの作品や写真、手紙、スケッチ、様々な資料と関係者へのインタビューの場面を中心に構成されている。

劇場で映画を見るのは久しぶり――2010年の暮れに見た『ノルウェイの森』が最後だった――で、たぶんそのせいでかなり疲れた。冷房はききすぎだし、トイレにも立てない。家でDVDを見るのとは違う。それなのに、ほかの劇場映画を見るのには腰が重いのに、なぜこんな地味なドキュメンタリーを観にわざわざ出かけたのだろう。それは多分、自分では自覚していないが、いわさきちひろだからなんだなと思う。

映画を見て、自分の中でいわさきちひろの絵の見方が変わったことは如実にわかる。ただかわいいだけの子どもの絵に、なぜ動かされるのだろうかと、それが不思議でならなかったのだが、はっきりとわかったことは、彼女の絵に描かれた子供たちには明確な実在感が、あるいは意思が、存在感が、確かにそこに子どもという名の何者かがいるとしか言えない何かがあるのだ。あるいはそれは子どもとすらいえない何か。きれいな色彩と、いたいけさ溢れる描写の向こうに、ある意味何物をも受け入れない強さ、支配を拒否する強靭さ、あまりに強い作者の意志のようなものが透けて見えるようになったのだ。

考えてみたらそれは今までだってそうだったのだと思う。しかしいわさきちひろの絵はかわいいだけの子どもを描いた甘い絵だという先入観に足をすくわれていたのだろう。マリー・ローランサンの絵がそう思われがちであるように、感傷的な、母性的な慈愛に満ちただけの、時によっては商業的でさえある二流の表現であると、思いこまされそうになる何かに目をくらまされていたのだと思う。

映画の中でも、ちひろは常にそうした評価と戦っていたことが分かる。その中でちひろは傷つき、考え込み、自分の表現を模索し、新しい世界を広げ、そして最後にはピカソのゲルニカに匹敵するであろう(映画の中でもちひろはピカソの古典主義時代の作品を何十枚も模写していたことが出てくる。ピカソのような画家になることは、やはり彼女の憧れだったのだと思う)ベトナム戦争を主題にした絵本、『戦火の中の子どもたち』を描いて、その翌年に亡くなっている。

戦火のなかの子どもたち (創作絵本 14)
いわさきちひろ
岩崎書店

ちひろの一生は戦いの連続だった。そしてそれは、特に若いころは、必ずしも褒められた戦い方でもなく、そうであるからこそちひろは傷つきながら戦い、描き続け、惜しまれながら早く亡くなってしまったのだろう。

女学生時代から将来を嘱望される才能を発揮しながら親に反対されて長女の義務として婿を取らされ、夫の勤め先である大連に渡ったがおそらくは生来の激しさの故に夫を受け入れることが出来ず、2年後に夫は自殺してしまう。日本に戻るものの満洲へ女子義勇隊を送り出していた女学校教師の母の勧めで再び満州にわたり、満蒙開拓団や地元の人々の酷い暮らしにショックを受けて心身症になり、終戦前に帰国、東京大空襲で家を失い長野県に疎開、敗戦で両親とも公職追放になり、すべての価値観が無効になったことを知った時、敗戦の翌日に数年ぶりに開いたのがスケッチブックだった。地元で共産党に入党し、家で同然で上京して27歳の未亡人として画家への道を決意し、丸木俊に弟子入りして女性の画家たちとお互いにヌードモデルを務めあいながら絵を学び、人民新聞に挿絵を描いて生活を立てたものの画家になるために退社。才能はあるが激しい性格のためにあちこちでうまくいかないことが多かった、のだと思う。

それも、その激しさが表に現れるのでなく、内側の決意として常に表現されたのだろう。何枚か出てきた自画像の表現がこれがあのいわさきちひろかと思うくらいの激しいものでありながら、夫や子供たち、周囲の人たちのちひろ評は、いつもにこにこして、一度も激しいことばを口にしなかった、というものだった。それだけその激しさは内攻し、心身症になったり、あるいは自らの体を蝕んだりしたのだと思う。

そうしてまで絵を描き続けた彼女の絵は、そうしてみたら甘いだけのものであるはずがないのだ。これはパンフレットでジブリの高畑勲が描いていることだが、「描かれた子供たちはほとんど笑っていない」のだ。そう、彼女の絵の強さはそこにあるのだということに初めて気づいたのだった。

あめのひの おるすばん (至光社国際版絵本)
いわさきちひろ
至光社

それは、現代で言えば奈良美智の絵も同じことが言える。性別不明の彼の絵の子どもが、笑っていることはほとんどない。彼の絵は記号性が強いが、ちひろの絵は水彩の可能性を追求し、クロッキーやパステルの質感を残している。技法的な実験を実はすごく行っている。今こうしてみていると、この絵はロートレックの書き方を使い、この絵はムリーリョの描き方を取り入れ、と本当にさまざまな技法的引用を駆使しているように思われる。私は彼女の絵を技術的に分析したことがないから気が付くのはそういう部分的なことだけれども、実は彼女は相当多くの絵を研究し、自分の作品に生かしているのではないかと思う。あの特徴的な絵の具のにじみを生かした絵も、水墨画の技術を研究していないはずがないと思う。

おそらくはそういうトップクラスの探求をしながら、作品としては「かわいい」子どもの絵としてまとめ、「甘い」という評価を聞き流しながら、生活を成り立たせるための絵を描き続ける。労働者側の弁護士として、さらには共産党の国会議員として激務でありながら収入があまり上がらない彼らの家庭を支えていたのが彼女の作品だったということを知った時、私はかなり驚いた。そしてそういう状況にありながら、挿絵画家としての権利を確立するために出版側に注文を付け、原画を必ず返却させることと大事に扱うこと、画料だけでなく印税も支払わせるといった当たり前の要求を実現させることに努力し、「面倒な画家」として仕事が減りそうになったときも、息子に「うちはこれから貧乏になるから覚悟してちょうだい」と言って戦い続けたのだという。その強さあっての、彼女の絵なのだ。

思えば私が久しぶりに映画館に足を運ぶ気になったのも、そうした創作者としての彼女の姿に出会いたかったのだなと思う。そしてそれは、十分にかなえられた。特に前半のデビューまでの苦闘は、とても見ごたえがあった。後半は少し間延びした感があったが、やはり彼女を「反戦」であるとか「かけがえのない子供を描いた」といった手垢のついた言葉で括り始めるとみるみる見る気が失せるという感じになるのはまあやむを得ないし、そういうものを期待して見に行った人多いだろうから、そういう人へのサービスとしてもそういうところは避け得ないものなんだろうなとは思った。

帰ってきてパンフレットを読み直してみると、彼女は厳しい評価をされていたという部分ばかりが強調されていたけど、実はデビュー作の紙芝居で文部大臣賞を取り、37歳で初めて絵本を描き、その前後に小学館児童文化賞、厚生大臣賞、サンケイ児童出版文化賞と次々に受賞している。その才能は明らかに傑出していたのだ。

そして画業で一家の収入を支えながら44歳で結婚に大反対した夫の両親と同居、48歳で夫が代議士になり、51歳で脳血栓で倒れた実母を同居させて、手伝いの人も住み込んでいたのだという。当時の松本善明は共産党の国対委員長で当然ながら新聞社の夜討ち朝駆けもあり、夫と自分の兄弟たちが親を訪ねてきたりもし、「2階は家族のものだけど1階は社会なの」という状態で絵を描き続けていたのだという。そして入退院を繰り返し、早すぎる死。本当に凄絶な一生を送ったのだなと思う。彼女の遺作は、小川未明の童話『赤い蝋燭と人魚』だった。

赤い蝋燭と人魚 (若い人の絵本)
小川未明、いわさきちひろ
童心社

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by Luke Peterson

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