『サマーウォーズ』を批評すること:好き嫌いを書くことの意味/「今を生きていることの手ごたえ」と「未来に向かって理想を追うこと」

Posted at 12/07/24

【『サマーウォーズ』を批評すること:好き嫌いを書くことの意味】

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細田守監督作品
バップ

映画評というものは好き嫌いだけを書けばいいというものではないし好き嫌いだけが書いてあっても読んでいて面白いものではないけれども、その評がその映画を好きな人が書いているのかそうでもない人が書いているのかということはかなり重要な情報ではある。好きだからこそ批判しているということが分かれば読みようもあるし、嫌いだけど一生懸命ほめているならそれもまたそういうものかと思える。まあそれは立場を明らかにするということで、そういう立場から見たらこう見えるのかということは自分とは違う見方を発見することであり、映画を見る見方が広がるとともにもっと大きなものの見方にもつながっていくことだ。もちろんそれは映画に対する評だけでなく、書評やマンガ評、ないしは政治に対する評価でも同じことだ。

逆に言えば好き嫌いという立場を表明することはその立場に立つ自分というものを引き受けるわけであり、特に「みんな=多くの人」が好きだというものに対し嫌いだという感想を述べたり、けなすような評価を下した場合、その人が(閉じた社会であってもその社会で)社会的に認知された人であった場合、非難が集中するということが起こりやすいようだ。特にネットにおいてはその鬱憤を直接ぶつけることが可能なので、ストレートに感想をぶつけるケースが多く、多くの「有名人」が閉口しているようだ。まあそれは「有名人」に対する嫉妬も含まれているのである種の「有名税」ではあるのだが、ネットの、特にSNSメディアの誕生以来、有名税はどんどん重税になっているなあという感想を持つ。私も昔は誰かのサイトに直接リンクを張ってこういうことについてはこう思う、という文章の書き方をしていて、それに対してどんどんコメントが返ってくる、というやり方をしていた時期があった。それをやるとアクセスは確かに増える。今はやっていないけれども今そのやり方を再開したら、やっていた当時と比べてもネットの密度が上がっているし、情報発信が全然たやすくなっているので、あっという間に相当な程度にアクセスは増えるだろう。

しかしそうなってくると「はるかぜちゃん」のツイッターアカウントに起こった現象のように、ものすごい数のネガコメント、ネガツイートが殺到するということが起こったり、あるいは一つ一つのコメントに丁寧に応対しているとほかのことが出来なくなるといった現象が起こったりするだろう。私のブログでもいくつかかなりのコメントが来るエントリがあるのだけど、正直言ってお相手したくない書き込みもいくつかはある。書きたいことを書くためにブログを書いているわけだから、書くことによって書きたいことがかけなくなるというのは本末転倒なので、今はなるべくそうした形での直接リンクははらないようにしている。ということはどんどん直リンを張り始めたらアクセス向上大作戦を再開したということなのでその際にはよろしくお願いします。そんなこといつ始めるかわからないけど。

まあそんなことを思ったのは、細田守監督『サマーウォーズ』に対していろいろ書いたり読んだりしていると思ったより多くの人たちがこの映画についていろいろ書いたり読んだりものを言ったりしているということを知って興味が出てきたからだ。それはつまりこの映画がある種の社会現象になっているということで、観客動員数が123万人というのはジブリの映画に比べればかなり少ないが、DVD売り上げでは週刊1位も記録していてそれこそ「記録よりも記憶に残る映画」という感じになっているようだ。

そしてそうなっているのはこの映画が好き嫌いが分かれる映画だということがあるのだろうと思った。そしてそのポイントは、「田舎の大家族」というものをどう受け取るか、というところにあるようだし、「田舎の大家族」を実感として知っている(あるいはその中にいる)人たちは必ずしも肯定的に評価できないが、リアルにはそういうものを知らないという人たちには憧れることのできる、民族的な郷愁を誘うある種の桃源郷としてイメージされるものであるということで、いわば「セカンドライフを自然豊かな田舎で送る」というキャッチコピーと同じようなレベルで受け取られている部分が多いのではないかと思った。それだけ今の日本人は「田舎」とか「大家族」から隔離されているということなのではないだろうか。

もう一つは、「大家族」というのはあの映画でもそうだったが、少なくとも少し前の時期にはその地における有力な家系であったことが多く、裕福であったという経験があることのある「家」であることが普通だ。これはよくテレビでやっている「子沢山18人の家族」とかが郷愁?を呼ぶというのと共通しているところと違うところがあるのだけど、人数が多いと必ず外れ者があり、でも大家族の大きな懐の中で存在を許される、という「懐の大きさ」みたいな部分では共通しているのだろう。まあ逆にそういう大きな懐が息苦しい、ということだって実際にはあるわけだけど。

私はなんというか、あの現世肯定的、あるいは「いまあるものはすべてよし」的なところがちょっと受け入れにくいというか、やはりつまりは私の価値観と違うところがあるから「そういうことって押し付けないでほしいよね」的な違和感の萌芽を覚えたのだけど、おそらくあの映画が好きでない人はそういう拒否感みたいなものを持ったのだと思うし、少しそういう映画評をなさるサイトを見ただけでもいくつかそういうものがあった。そこに対してかなりdisる(攻撃する)反応を受けたということを読むと、つまり「そういうことも受け入れろ」的な超面倒くさい押しつけ攻撃を受けたんだろうなあと思うのだけど、まあそれは実によくある強力な同調圧力の表れなんだなあと思う。

同調圧力というのはもちろん意見が分かれるところに起こるのであって、意識上の多数派(ノイジイマジョリティ)が彼らから見ての少数派(サイレントマイノリティ)が違和感を呟くとカチンと来てつぶしにかかる、といった構造になっている。いろいろな意味で実に面倒くさい話なのだが、逆に言えば自分の感じる価値観をすべて肯定していないと安心していられない、一人でも否定する人がいれば不安で逆上してしまう、ということなんだろうなあと思う。所詮生きているということは赤信号を渡ることなんだからみんなで渡ろうよ、そうじゃないと不安だし、一人だけいい子になって信号まったりしないでよ、私たちが間違ってるみたいでしょ、と。


【「今を生きていることの手ごたえ」と「未来に向かって理想を追うこと」】

まあそれはともかく、この映画を肯定的に見た方から頂いた感想でも、はっと目を開かされるというか、そういう見方ってあるし、自分は見落としがちなところだな、と思ったものがあった。それは「あの大家族には主婦も含めていろいろな職業の人がいて、みんなそのポジションで頑張ることが重要で、そここそが自分の居場所で、それでこそ大切な人を守ることが出来る、ということではないか」というご意見だった。

なるほどこれは全くそうだよなあと思った。「今を生きる」ということを具体的に言えばまさにそういうことだと思う。これは本当に、いま生きていることに手ごたえがある、手ごたえを感じながら生きている人の言葉だと思うし、なんだかんだ言っても私は映画を映画としてしか見ていないんだなと反省させられた。

「たまたま」自分のできること、それぞれの人ができること、それぞれの職業でできることを駆使して大きな困難に立ち向かう。そういえばそういう作品は今までにもどこかで見たことがあって、確かにそれはそれで痛快なものだった。一方で、それじゃ自分は何を目指せばいいのか、と不満に思ったことも覚えている。そういう映画には「答え」はない。「やりたいこと、できることをやればいい」としか書いていないわけだ。「何をやるか」より、「何のためにやるか」の方が重要で、その答えは「誰かを守るためにやる」ということなんだ、ということを言っていると言えばいいのだろうと。そういう意味では答えは一つしか用意されていないともいえるわけなのだけど。

「ご飯を食べることと一人で居ないこと」というのはまさに「今ここにいる手ごたえ」を実感する瞬間ということなんだな。

私はそういう「すべては幸福に向かって閉じていく」世界観みたいなものはなんというか自分とはあんまり縁がないような感じを持っているんだなあと思う。それはさびしいことなのかいいことなのかわからないが、幸福よりも自由の方が好き、という自分の指向の行き着くところはそういうところなのかなとも思う。そしてそれはやはり少数派なのかもしれないとも思う。

きのう書いた言い方を少し変えていえば、「未来に向かって理想を追求すること」と「現実に生きることの手ごたえ」のどちらを大事にするか、というふうにも言える。手ごたえを感じられないと不満だし、未来が見えなければ不安だ。確かに恋愛をしているときとかは生きている手ごたえは毎日満ち溢れているし、あれはそういう意味でも自分の人生の中でも貴重な日々だったなとは思う。ただ、四六時中彼女のことばっかり考えているから未来のこととか全然考えてなくて、だいたい恋愛も行き当たりばったりで終わってしまったけれども。というか、未来のことを考え始めると破局になるというパターンだったわけで、それは破滅的に過ぎるわ。ちゃんと「私たちのこれから」をしっかりと考えられる人だけが恋愛を「成就」させられるんだなと当たり前のことをしみじみ思ってみたりする。おばあちゃんが「あの子を幸せに出来るかい!」とケンジに迫るけれども、なんていうか「幸せにする」ってどういうことなのか私とかには結局あんまりぴんときたことがないんだなと思ったり。私にとって一緒にいる相手というのは理想を追求するためのパートナーとしか描けないところがあったなあと思ったりする。まあ私にはそういう意味で、地に足が付いた人が必要なんだろうな、と思ったり。

まあいろいろ考えてみると自分の不得意科目も見えてくるし、その辺のところ改めてしっかりやってかないといけないんだなあと思った。

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