細田守監督作品『サマーウォーズ』を観た:宮崎駿と細田守と大家族と電脳と

Posted at 12/07/23

【細田守監督作品『サマーウォーズ』を観た:宮崎駿と細田守と大家族と電脳と】

金曜日にテレビ放映していたものを録画してあった細田守監督作品『サマーウォーズ』を昨夜、『平清盛』を観終わってひと段落ついてから見た。ある意味単純に面白く見たのだけど、どうも何かいろいろな思いが残り、とてもいろいろなこと、特に今まで見てきた最近のアニメとの相関関係などをいろいろ考えさせられる作品だった。

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一番感じたのは宮崎駿監督との関係で、こういうアニメ、こういう才能をどう扱うべきなのか、ということだった。宮崎駿がジブリに入社を希望する細田に、「うちに来たら君の才能を潰してしまう」とわざわざ手紙を書いて入社を断ったという話をネットのどこかで読んだのだが、それはよくわかる、と思った。この作品を観終わってみて、細田はやはりとんでもない才能の持ち主だと思うが、宮崎の志向とは大きく相反するものを持っていると思ったからだ。

最初にOZの電脳空間を見たとき、これはあからさまに村上隆だなと思ったが、実は村上はこの映画にノータッチなのだという。ネットで調べると、村上の名でクレジットされているアニメ作品も作業面では細田が作ったものがあるということも知って驚いた。

あの電脳空間は、すごくよくできていると思う。そしてあの定点移動する村上隆的な雰囲気。あれは思いつきそうで思いつかず、できそうでできないと思うのだけど、全体が実に調和的で、バロック音楽的、非常にスケールの大きなバッハ的な調和均衡が取れていると思った。

劇団イヌカレーによる『魔法少女まどか☆マギカ』の異空間の描き方にも圧倒されたが、今回この『サマーウォーズ』を見て、彼らもまたこの電脳空間に強く影響されているのではないかと思った。少なくともこれを踏まえたうえで彼らは魔女のいる異空間を制作したのだと思う。空間としてはイヌカレー空間の方がはるかに「荒ぶる」空間であり、バッハ的な均衡からモーツァルト的な破調へと姿を変えていく魔術がふんだんに満ち溢れているとは思うけれども、本質的にこの『サマーウォーズ』の描写を踏まえたことで描写が力強くなった面があるのではないかと思った。ただ、私はすべてのアニメを見ているわけではないから、そこに正確な系譜関係を描けるわけではない。その辺は網羅的な研究者に詳細を聞きたいところではある。いずれにしてもあの電脳空間の創造は、まぎれもなく細田の才能の表れなのだと思った。

そしてもう一つは、大家族という現実世界での存在をある意味無批判に肯定している部分だ。おそらくそれは現実肯定力と言ってもいい。電脳と現実世界の無批判な肯定と言えば、宮崎が躍起になって否定しよう、乗り越えようとしている世界なので、宮崎は細田がジブリに来たら才能を潰してしまうと本能的に思ったのだろう。そしてそれは、近藤喜文のことがあるからではないかと私は思っている。

近藤の才能は『耳をすませば』で存分に発揮されているが、これもおそらくは宮崎との徹底的なぶつかり合いの中で生まれた作品であることを強く感じさせるところがある。近藤もまたおそらくは「ささやかな日常」をあっけらかんと肯定する力を持った作家で、つまりは宮崎の描こうとするやや理念的な世界をとは相反する部分に彼の才能の本質があるように思う。

いうまでもないのだが、というよりもう何度も書いているけれども、私は宮崎の作品にはとても強く魅かれるし、大変尊敬している作家であるのだが、近藤にもまたすごく心魅かれ、『耳すま』も大好きな作品だ。しかし私は『魔女の宅急便』のDVDは持っているが(とにかく冒頭から「ルージュの伝言」までの展開を何度も見たくて仕方なかったのだ)『耳すま』は今のところ買っていない。それはなんというか、ある種の存在の哀しさのようなものをこの作品に感じてしまうところがあるからだ。

宮崎は日本の現状というものに対し、またアニメ業界の現状というものに対し、非常に強いラジカルな批判を持っていて、それは彼の作るアニメにとても強く表れている。彼はあるべき少年の姿、あるべき大人の姿、あるべき自然の姿、描かれるべきもの、描くべきものについて常に明確なイメージとそれを描くべきだとする明確な意思を持っているし、彼の作品世界はそれに貫かれている。

彼は理想に向かって突っ走る孤高の表現者であり、彼をめぐる人々は彼と取っ組み合いをしながら彼の創造を形のあるものにしている。いわば奇跡のコラボレーションがジブリでは成り立っているのだ。彼はいわば革命家であり、そこに妥協はなく、中途半端なことは許さない。彼にとって現実や日常のすべては改変すべき対象であるのだ。

彼の描く日本的な世界は実は日本的ではない。『トトロ』にしても『千と千尋』にしても日本に強く残る伝統や因襲というものについて、彼の世界は完全に、もちろん意識的に捨象しているからだ。男女は限りなく平等だし、家制度による束縛もない。そういうことを設定に使いたいときには世界を日本にしないことで(『ラピュタ』の空賊一家など)日本の因襲を肯定する危険から逃れている。私は彼のそうした戦後民主主義的な正義感、世界観というものにあるときまで強い反発を感じていて、数年前に初めて『もののけ姫』を見るまでは頑なに彼の作品を見ることを拒んでいたのだ。私は私なりに「革命」というものに対する思いがあり、60~70年安保世代に対する反発、オウムなどへの拒否感から、むしろ今日的現実や伝統、ないしは因襲に近いものまであえて肯定しなければという意識さえ持つようになっていたからだ。(それは学校現場にいてそのあまりの乱脈ぶりに「道徳」の復活の必要性を私なりに強く感じたということと無関係ではないのだが)

しかし一度彼の作品を見てしまうと、彼の作品の凄さと深さに抵抗のすべはなく、数週間で『ナウシカ』から『ポニョ』に至る彼の監督作品をすべて見てしまった。私の中にもやはり宮崎と同じ現状への批判、アンチテーゼと新しい人間関係の構築と提唱のイマージュ(幻影)と夢がかなり強くあることに改めて気づかされたし、そうした戦後民主主義的な視点とは少しずれはするのだけど、彼の視点もまた彼の作品を見るにつれて理解できるようになる面も多くあったからだ。

しかし私は純粋な「革命世代」ではなく、それに続く「新人類世代=第二世代」的な性格・性質も強く持っているのだと思う。第一世代が蹴散らしてきた「なまぬるい日常」や「不当な現実」、ある意味古い固定観念にさえ魅力を感じるようなまなざしを持ち、肯定さえしてしまう感じも併せ持っている。革命世代は自然へのまなざしや人間の本質へのまなざし、ラジカルな本物へのみ目を向けていて、第二世代のようにある種のそうした「表層的」な「上澄み」の部分へは目を向けないのだ。

革命世代の希望は「世の中を変えること」にあり、絶望は「世の中が変わらない」ところにある。第二世代の希望はむしろ「この現実の中で生きること」にあり、絶望は「現実から排除される」ことにある。第三世代になるとまたそれぞれに様相は変わってこようが、革命世代と第二世代の「親子対立」の本質的な部分はそういうところにあるのだと思う。そして宮崎駿というあまりに強力な親の世代の前で、第二世代である近藤は十分にその個性、力を発揮しきれないまま早すぎる死を迎えた。平清盛と重盛の関係のように、強烈すぎる親の元にいる不幸でもある。そしてその下から脱し、わが道を行った庵野秀明が独自の境地、新しい世界を切り開いて行ったのと同じことを望んで、宮崎は細田に「ウチの子にはなるな」と拒絶したのだろう。そこには宮崎のアニメ界全体への責任感を感じる。

さて、ずいぶん前置きが長くなったが、『サマーウォーズ』をそういう言うことを踏まえて振り返ってみると、いろいろな点が見えてくるように思う。

ストーリーを簡単に、と言っても十分にネタバレになっているので見る予定のある方はこの段落以降は読まない方がいいかもしれないのだが、まとめてみたいと思う。

数学オリンピックの候補になるほどの力を持った、しかし非リア充の少年ケンジが、憧れのナツキ先輩の彼氏役として彼女の属する大家族のもとに帰省し、そこで彼が関わるOZという電脳空間の異常に出くわす。OZはすでに世界のインフラになっており、OZが異常をきたせば世界の機能が麻痺してしまうのだ。大家族の長である老婆・栄のアナログな努力によって一旦は事態は収拾したかと思われたが、一族の鬼っ子である妾の子・侘助の作った人工知能・ラブマシーンが意思を持って暴走し、まさに破滅をもたらそうとする。そんな時に突然襲った栄の死。少年はラブマシーンとの戦いを決意し、一族の男たちと協力して戦うためのインフラを整備し、ラブマシーンに戦いを挑む。天才ゲーマー少年カズマの活躍でラブマシーンを追い詰めたり、ナツキのギャンブラーとしての力を駆使して花札でラブマシーンを追い詰めたりと、様々な才能が活躍してついに勝利するが、断末魔のラブマシーンは最後っ屁のように一族の在所に人工衛星を落下させようとする。そして世界一複雑な暗号を次々と解いた少年は、ぎりぎりのところで「よろしくおねがいしまーす」と最後の賭けに出て、見事に人工衛星の軌道をそらし、破滅を免れることが出来た――

ネットで調べると、これは24分ほど、つまり全体の2割以上カットされているようなので完全なものを見たわけではないのだが、一応私の見た範囲と調べた部分を前提として話を進めたいと思う。

最初は話の世界にうまく入れなくてどうしようかと思いながら見始めたのだが、村上隆的電脳空間が現れて思わず気持ちが乗ってしまった。大家族の紹介、侘助の登場など、話を広げる過程は少したるかったが、ケンジが携帯に送られた暗号を解き始めるあたりから面白くなり、あとはほとんど一気に見た。CMがかなり多くて何度も早送りしながら見たが、思ったより短い印象を受けたのはそれだけカットされていたということなのだと思う。

全体的に言えば面白かったと言っていい。しかし何というか、毒がない作品だなという印象を受けた。考えてみるとこの作品、悪意のある人間、存在は全く現れてこない。ラブマシーンにしても侘助が作ったAIを米軍が軍事演習の意図をもってOZ上に投入したために暴走したというだけで、アメリカの世界支配への批判があるかと言えばそういうわけでもなく、『魔法少女まどか☆マギカ』のきゅうベエのような明確な邪悪さを持っているわけではないし、何度も簡単に罠にはまる。また先に書いたように、宮崎アニメには必ずある現実批判――たとえば『ポニョ』で宗介が両親をファーストネームで呼び捨てにしていることなど――もない。大家族の連帯で電脳の暴走に勝利した、と言ったら文明批判のようにも見えるが、電脳を利用して生きざるを得ないということ自体は否定されていない。というより、オッサンまでゲーム歴30年とか言ってるような世界で、電脳の否定もへったくれもないないだろう。

また大家族も郷愁的に描かれているだけで、その因襲のめんどくさい世界には全然踏み込んでいない。「大家族の嫁から見たサマーウォーズ」というまとめサイトがあって読んで笑いながらうなずかされたのだが、日本の大家族というものは女たちが集団でおさんどんをすることによって成り立つ戦国時代とあまり変わらないシステムなのだ。その戦国の世の攻防戦を下敷きにこの電脳空間との戦いを描いているという構造上、そこを否定的に描くことはできないし、また妾の子である侘助の存在が唯一の大家族批判となり得る部分なのだけど、結局「栄に認められたい」という一心で元凶となるラブマシーンを作り出したという設定になっていて、そうした芽も摘まれている。私も自分自身がこういう「日本の大家族」の一員でもあり、「独身(バツイチだが)の長男」でもあるのでこういう世界がいいことばかりでないこともよくわかっているだけに、こうしたものを無批判に郷愁のみで肯定する姿勢には物足りないものを感じた。

人物にはいろいろ細かい設定があるようで、その辺が楽しむポイントのようではあるのだが、そのあたりはあんまりのめり込みたいとは思えなかった。しかしキャラクター設定が貞本義行ということで、それぞれのキャラクターの「エヴァンゲリオン風味」はなかなか乙であったと思う。ナツキというキャラはエヴァにはない和風性が新鮮であったが、その天然ぽい魅力は軽はずみさとあいまってこの作品の中でうまくヒロインの座を占めていたと思う。そこが「本当は」能力があり、「いざとなったら」力を発揮する「今まで本気出してない」ケンジというキャラとうまくバランスが取れているように思った。まあ新しい関係とは言えないけど、イマ受けする設定という意味でだが。

細かいことをいくつか書くと、OZの守り神であるクジラ(ツイッターかよと思ったが)の名前がジョンとヨーコというのには吹いたが、そこから展開しなかったことが残念だった。また侘助という名も「椿かよ!」と思ったが朝顔しか出てこなかったのは残念だった。まあ冗談だが、美術監督が『千と千尋』などを担当した武重洋二だということで、画面のジブリっぽさにもうなずけるものがあるなとは思った。

これは作品の難とは言えないが、カットが多かったことは不満だ。カット場面はいくつかのサイトで確認したのだが、侘助とナツキが花札をするくだりがなければ、ナツキの侘助へのあこがれやケンジのナツキへの片思い性の強まりもなく、ラストでナツキがラブマシーンと戦う必然性もなくなってしまう。

あんなにしっかりしゃべるおばあちゃん・栄(何しろ声優が富司純子なのだ)が歯が二本しかないというのもアンリアルだし、いくら何でも一族がみな自衛隊だの消防だの警察だのPCやだの電脳決戦に関係がある仕事にばかりついているのはご都合主義だとは思ったが、まあその辺は漫画の嘘として受け入れるしかないんだろうなと思った。

テーマ的な部分で言えば栄の遺言に「食べることと一人でいないことが大事だ」みたいなことが書かれているのだけど、あんまり食べないし一人で居る自分にとってはそういわれてもねえ、と思ったりもした。まあそりゃそれとして。

電脳世界は異形の世界ではあるが、共生していかなければならない世界として描かれているしアバターの存在によって身近なものに感じられる設定になっていて、その辺はラピュタのような絶対的な他者ではなく、ファンタジーという意味での飛翔感はあまりないなと思った。

ケンジとナツキの成長物語と恋の成就、それも大家族の一員として、の話であるが、大家族の描き方もアメリカやイタリアの映画のような絶対的な迫力のあるものとして描いた方がよりリアリティがあるようにも思った。その辺はやや憧憬と現実の境が妥協的で、もう少し書きようがあったかもしれないとも思う。まあアニメ表現はこんなものだろうかとも思うのだけど。

まあいろいろと批判的なことを書いたけれども、正直言って私もこういう感覚はよくわかる。幻想でもいいから温かい家族というものを描きたいという意思。そこに幸せの形があるという主張。それはフィクションかもしれないが、それを描きたいという気持ちはよくわかるし理解できる。ラジカルではなく現状追認的ではあっても。だからそれの何が悪いというフィーリングも。そこに売上的な観点が絡んでくるとまた話はややこしいのでそこには触れないでおくけれども。

私の中には本質を追求したいという気持ちとリアルを楽しんで生きたいという気持ちの両方があって、そのアンヴィヴァレンスに引き裂かれているというところがあるのだ、ということがこの作品を見てよくわかった。理想の追求と現実の生きることの肯定。それは人間の持つ二つの根源的な要求だろう。絶えざる進化の要求と、現在を生きようとする意志。前者がおろそかになると人は不安になり、後者がおろそかになると人は不満に陥る。不満を乗り越えるのにますます理想を追求する人もいれば、不安を打ち消すためにますます現在をより充実させていく人もいるが、多くの人はどちらも成り立たせたいと思いつつ不安も不満もないまぜになった形で生きていることが多いのではないかという気がする。そしてそれぞれの思想というものは、どこに落としどころを設けるかによってさまざまなバリエーションが生まれてくるのだろうし、それはその人自身が選択していくしかないものなのかもしれないと思うが、逆に言えば思想を準備する側、表現する側にとっては無限の沃野が広がっている時代と言えるのかもしれないとも思う。「すべての人」の救いになる思想を生み出すのはかなり困難な時代だが、「ある人々」の救いになる思想は常に求められているし、少数とはいえそういう人の需要は絶えることはないだろうからだ。そして我々自身にもおそらく、その沃野を見下ろす鷹の目を、持たなければならない時代なのだとも思う。

最終的にかなりでかい話になったが、それだけのことを考えさせてくれる文脈をこの監督と作品は持っていたということだろう。そういう意味でもいろいろと楽しめた。細田監督の最新作は現在公開中のようだが、機会があれば見に行ければと思う。

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