嫌いなものが自分の立ち位置をはっきりさせる/大きなまとまりを見出すためには

Posted at 12/06/07

【嫌いなものが自分の立ち位置をはっきりさせる】

嫌いなものが多いというのはあんまりいいことではないなと思う。私の場合も、何かを好くということよりも、何かを嫌うということの方にエネルギーが割かれている感じがする。嫌いなものを無理に好く必要もないのだが、意識化にある嫌いなものに対するマグマみたいなものが私にはかなり大きいなと今朝いろいろ考えていて思った。

嫌いなものもある種の敵としてちゃんと焦点を結ばせて、作品の題材として描く対象にすればいいなと今考えていて思った。何が嫌いかということは、書き手のスタンスをはっきりさせる。その方が世界のイメージをぶれさせないだろう。

ああ、そこに問題があるんだな。こういうブログのような文章は、こういう人が嫌いだとかこういうものが嫌いだとかいうことは生々しすぎて書きにくい。以前そういう感じのことを書いていた時期もあるのだけど、そういうことを書いているとどうも虫が湧いて来るということもあり、あからさまな批判も含めてそういうことは今ではまず書かないようにしている。しかし私自身の宇宙の中には明らかにそういうものに対する嫌う気持ちや批判の気持ちはすごくあるので、そこで表現におけるバランスが取れてなかったんだなあと思う。

『本の木の森』という作品を書いたときに、自分の中にある敵意に気づいてかなりアップセットした覚えがあるのだけど、しかしそれがあるからこそこの作品は自分の中ではどっしりした作品だというイメージがある。パブーで有料にしてしまったのでなかなか読んでもらえないのだけど、自分としてはそういう意味で一番書けているとは思う。もちろん作品としては拙い点が多くてアレなんだが、書こうとしている世界としては今までの中では一番奥行きがある、とは思う。『使命』にもかなりの悪意があるのだけど、こちらはそこからの広がりがあまりうまく書けなかった。


【大きなまとまりを見出すためには】

草子ブックガイド(1) (モーニングKC)
玉川重機
講談社

今は小説よりも読む人が人生の指針にできるようなものを書ければいいなと思ってここ何ヶ月か模索していたのだけど、一つ一つ単発的にぽつぽつとそういうものは書けても一冊の本としてまとまりがあるようなものがなかなか書けなくてどうしたらいいかなと思っていた。ブログなどでも1エントリ分の話、みたいなものは書けるのだけど、私の世界観全体を映し出すようなまとまりのある文章になって行かないなあと。体系的な指針本みたいなものではなくて列挙的なコラムでもいいのかなとも思うが、一話一話全然焦点の当て方の違う話になるだけでなく、それぞれの内容に矛盾があったり齟齬があったりする感じになっていて全然整理ができてない。

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)
宮澤賢治
新潮社

どうして連続した話が書けないのかなと考えていたのだが、今朝買ってきたモーニングを読んでいてヒントがあった。玉川重機「草子ブックガイド」で取り上げられていたボルヘスの図書館の話と宮澤賢治「銀河鉄道の夜」のエピソードを読んでだ。読みながら、宮澤賢治という人は自分の宇宙を書いた人だなと思った。自分の中にある宇宙。アルビレオという白鳥座の星の名前だとか、北上川の地質だとか、そういう自分に関心のあるものがこの物語の中にはちりばめられている。自分の関心のあるもの、自分の好きなものによって彼の宇宙、銀河鉄道の世界は組み立てられている。組み立てられているというより、有機的な宇宙として息づいている。そのことに、このマンガを読んで気付かされた。人はそれぞれ、自分の宇宙を持っていて、自分の愛する宇宙を持っていて、そして人や物が寄り集まってこの世界ができている。世界は不条理で、いやなものがいっぱいだが、その世界を美しいものと見る力は、単なる観察力の問題ではなく、見るという意思の力がすごく大きいのだ。この世界は美しい、と決めてしまえば蛇の抜け殻や死体に湧いた蛆でさえ美しい。おそらくブッダがいったこの言葉の意味はそういうことなんだろうなと思う。

カレチ(3) (モーニング KC)
池田邦彦
講談社

そういえば今週号の「カレチ」で年配の乗務員が後輩にいった言葉、「好きな仕事をやれる方法がたった一つだけある。ついた仕事を好きになることだ」というのともこれは重なる。まあこれは相当な修行を要することであって違う行き方も考えた方がいいが、この世に生きるこの世とはこの世しかないのだからこの世に生きることを好きになるにはこの世を好きになる、美しいと感じられるようになるしかない。そして、その中でこの世界と人々を愛し続けるしかない。

それができている人というのは、いつも熱意でいっぱいだ。どんなに疲れていても、どんな病で倒れていても、その人の言葉は愛で溢れていて、間違ったことを言う人たちに容赦なく愛の鞭をふるう。そういう人の行動の意味が私にはよくわからなかったのだけど、それだけその人はこの世界への愛に溢れているんだということに今日考えていて気がついた。

それだけ強い意志を持てるかどうかといえば私などにはとりあえずは自信はないのだが、少なくとも好きなものを好きだと書くことはできるし、嫌いなものを嫌いと書く方法もまた探ることはできる。好きなものから始めればいいんだと思う。この世界のものすべてを好きだというのはやはり無理がある。好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いだということが、この世界を愛するということなのだと思う。

連続したものを書く、あるいはまとまりのあるものを書くということは、その連続とかまとまりとかの意味を考えてみれば、どちらも結局は自分の宇宙の中でのつながりだとかまとまりだとかであるしかない。あまりそれぞれのものに近づきすぎて見ていてはひとつひとつの生々しい亀裂みたいなもの、まだつながらない腫れあがった傷跡みたいなものがいやでも目につくが、すうっとロングに退いて行けば、全体は自然とつながりのあるものに見えて来る、ということもあるかなと思う。自分が書いていることの内容を一つ一つ正確にとらえながら、自分の宇宙を渡って行く航路をつかんでいかなければいけないんだなと思った。

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