ネガティブなことを書かなければならないというバイアス:モーニングページの書き方を見直す

Posted at 12/04/18

【ネガティブなことを書かなければならないというバイアス:生活の根幹であるモーニングページの書き方を見直す】

ずっとやりたかったことを、やりなさい。
ジュリア・キャメロン
サンマーク出版

今日はいい朝だ、ということをモーニングページに書いていてはっとした。

私はジュリア・キャメロン『ずっとやりたかったことをやりなさい』(原題The Artists' way)を読んでからずっとモーニングページをつけている。はっとしたというのは以下のようなことだ。

今朝のモーニングページから。(一部)

「4月18日(水)晴れ

今日という日を素晴らしい一日に出来ますように。

古楽の楽しみはヴィヴァルディ、大塚直哉さんだった。少しだけラジオ体操ができた。目が覚めたのは5時25分だったけど、少し二度寝して起きたら6時10分だった。

昨夜は寝る前にドリーン・バーチューを聞いた。よかった。」

ここまで書いてはっとしたのだ。

実はいままで、こんなポジティブなことをモーニングページに書いたことはなかったのだ。この本を買ったのは2007年の10月だったが、それ以来ずっとモーニングページを書いているのでもう4年半になるわけだけど、今まで基本的にはモーニングページはネガティブなことを書くものだと思って、というか半ば思いこんでいたのだ。

それで、モーニングページを書こうとするときも、無意識のうちにマイナスのこと、ネガティブなことを探して書こうとするバイアスがかかっていたということに気がついたのだ。本来、「心に浮かんだことをそのまま書く」のが目的なので、当然なんだけど良いイメージを書いてもいいのだけど、今日そういうイメージを書いてみてすごく新鮮な感じがしたのだ。

ネガティブなことを書かなければいけない、というバイアスも考えてみたら変な話だ。なぜそんなことを思っていたのだろうとモーニングページを書きながら、また書き終えた後も考えていたのだけど、一つには自分の心の問題であり、もう一つは本の書き方の問題であると考えるに至った。

一つ目は、自分の心の中は暗いんだ、というこれは無意識の思い込みがあったということ。というか、事実相当暗い時期があったのは確かで、ブログなどでもそれを無視して強がりというか明るめの強めのことを書いていて行き詰ってきていた、つまり自分は強いんだ、強いはずだという思い込みにすがっていた相当弱々しい暗い時期があったということはあるのだ。しかし、最近はだいぶそれが回復してきていて、それなりに前向きに動けるようになってきているから、心の中も暗いばかりではなくなってきているのだけど、暗いこと、深刻なことを書かなければいけないという思い込みに縛られていたということに気がついたのだ。

最初は多分、暗いことを書いてもいいんだ、という「許可」だったのが、暗いことを書くもんだ、という「前提」に変わってしまっていたんだなと思う。最近、モーニングページを書いていると手足が冷えるなと思うことがよくあって、それもなんだかなあと思うようになってきていたのだ。

私にとって、モーニングページはいわば生活の根幹だ。根幹だ、というと言い過ぎであるとしたら、少なくとも根幹をなすものの大きなパーツだ、ということは間違いない。起きて必ず3ページ以上の文章を書く、ということを4年以上続けているわけで、そのことが自分の生活に影響を及ぼさないはずがない。

だからこの習慣をどのように続けていくか、というのは私にとってはとても大きな問題なのだ、ということを改めて自覚した。

毎日の最初にやることなのだから、書くことによって元気が出て、さあ今日も一日張りきって行きましょー、というふうになった方がいい。でも現状のモーニングページはそういうふうになっていなくて、むしろあんまり書く気にならないものを何とか書いて、手足は冷えるしさて書いたけど今から何やろうかなあ、みたいな感じになるパターンになっていた。

そのあたりの所を考えてみると、以前はネガティブなことを書くことによって自分の中の毒を出してすっきりするというデトックス的な、ある意味での「癒し」的な効果が自分の中にあったのだけど、今ではむしろネガティブなものが付着してしまう鬱陶しい感じになっていたのだと思う。

野口整体ではからだを働かせる(緊める)ことと休ませる(弛める)ことを考える。まあこれは何でも緊張と弛緩のリズムが大切だという話ではあるが、朝は本来は、というか私のようなタイプの人間は、ということかもしれないが、活動の時間だと思うし、本来はさっと緊めて仕事に取り掛かるというふうにしたい。しかし前の日までの毒や疲れが残っていてすぐには動けない、というときならデトックス的な、癒し的なことをやることで少しは動きやすくなる、ということもあったのだなと思う。だから基本的に朝の気分がポジティブになってきているならそこで何もネガティブなものをはさむ必要はないわけで、元気がみなぎるようなこと、希望に満ちたことを書いてもいい、書けばいいのだなと思った。

今までの自分のモーニングページの使い方を考えてみると、ぼーっとした幽明境にある頭の中を書きしるしたり、出来れば自動書記的に何かを書くとかを一つの理想とイメージしていた部分がある。自分はこうしたい、ということを悲壮感をみなぎらせて決意を書く、というものではないけれども、ポジティブなこともやれそうなことも思ったことを気楽に書けばいい。

そういう意味では、ポジティブなこと、やれそうなことを書いてしまうとやらなければいけなくなってしまう、ということを無意識に恐れる気持ちがあるんだな、ということにも気づいた。

また、何となく一貫性のある文章を書こうというバイアスがかかってしまうこともあるのだけど、でたらめの思いつきを書くのが面白ければそれを書いてもいいし、面白くないことをぐずぐず書くノリのときはそういうことを書いてもいい。気持ちの整理が書きたければそれを書いてもいいし、モーニングページ自体を話し相手に見立てて書いてもいい。今までのモーニングページはモノローグすぎたなと思う。

以上は自分の心の中の問題で、まあいえば「自由に書くことの難しさ」が現れてるんだなと思った。自由に書こうとしても、つい自分の中でルールを決めて、それに従って書いてしまうのだ。それ自体は悪いことではない、というか自分の書きたいことを書くのにそれが適切な補助線であれば別にルールに従うのも自由なのだけど、それはその時の「かりそめのルール」に過ぎない、「その場限りの遊びのルール」に過ぎないのだ、ということを忘れてはいけないのだと思った。

人は自由になりたがっているようでいて、でも本当に自由では、本当に何の手がかりもなければ何もできない。その場その場の空気の中から水晶の足場を紡ぎだして、それに足をかけて高く跳ぶ、自由とはたとえばそんなもの何だろう。『進撃の巨人』の兵団が使う立体起動装置のようなもので、何もない場所では跳べないのだ。

だからつい、昨日使った足場を今日も使おう、という怠け心が出てしまう。読み返すわけではないのだけど、前の日にそれを書いたときの気分は覚えているから、条件反射的にネガティブな記述を繰り返してしまう、ということもあったのだなと思う。

ただ、正直言ってこうなってしまうのは自分の問題だけではないと思った。


The Artist's Way (Inner Workbook)
Julia Cameron
Tarcher

二つ目は、本の書き方に問題があるのではないか、ということだ。実際、日本語訳を読んでみると、書かれている文章の例がネガティブなものばかりなのだ。私などは理論よりも実例の方が先に目に入ってしまうので、ついそのネガティブな記述を書くべきなんだというふうに誤解してしまった面はあるなと思う。「モーニングページには泣きごとを書け」、と誤解してしまったのだ。他の記述を読んでいると必ずしもそうではないということはわかるのだけど、一度そう思って無意識の領域に入ってしまったことを直すのはけっこう大変なのだ。

もともと日本人は、というより私は、そういうネガティブなものにはまりやすい、愚痴を言う場を求めているみたいなところがあるんじゃないかと思う。無理にポジティブなことを書こうとするのはよくないけど、ポジティブなことを思ったならポジティブなことを書いてもいいんだよ、というメッセージがあってもいい気がした。

まあアメリカ人だけでなく、人間は自分を強いと思っていたい、強がりを言いたい、特に他人には弱い面を見せたくない、という性向はあるから、敢えてネガティブなことを書いてもいい、という面を強調したんだろうなとは思う。そして私自身が、それで助かったという面もあるのだけど、ポジティブなことを書いてもいいんだよという記述がもしあったら、もっと早く浮上で来たんじゃないかなという気がしなくはない。まあそんなことは分かりはしないのだけど。

原語版を読み返してみると、モーニングページの説明の部分も日本語訳とはかなり違うことが書いてある。少しそのあたり整理して、一度その部分だけでも自分で訳し直して自分の生活の根幹であるモーニングページについての考え方をはっきりさせておこうと思ったのだ。

見直しに必要なイメージがあるのでそれを書いておこうと思う。

集中(緊張)と弛緩ということについて、今まで弛緩、どうやってリラックスするか、どうやってくつろぐか、ということばかり考えてきた。というのはなかなかリラックスできない、くつろげないというのがあったからだけど、最近は逆に元気が出てきたのでうまくリラックスできないのはうまく集中ができていないからなのではないかと思うようになったのだ。リラックスの仕方ももちろんもっと身につけた方がいいが、集中の仕方、たとえば「明るい集中の仕方」とか、「疲れない集中の仕方」というものを考えた方がいいと思った。少なくとも集中すると手足が冷える、というのはどうもなんかおかしいと思う。まあ身も凍るようなものを書くのを目指すならそういうこともあるのかもしれないけど、基本的にそういうわけではないので書けば書くほど身も心も動いて行く、というような集中の仕方を考えておきたいと思う。

少し思ったのは、書くことに「居着い」てしまうと手足が冷えるのではないかということ。つまり集中すると言ってもやはり集中の場所はどんどん動いて行く、さっき書いたかりそめのルールが次々に現れては消える、というものだと思うのだけど、一つの所にこだわってしまう、鈍重になってしまう、書くことそのものにこだわってしまう、というような状況になるとからだとこころが居着いてしまうのではないかということ。心が自由さを失っている、と言ってもいい。

小説でも、小説世界の入り口から入ったら、もう本当は立ち止ることができないわけで、どんどん奥に入って行くしかない。そしてどんどん進んで行けば、「誰も見たことのない場所」に行きつくことができるわけだけど、そういう「本当の自由」を得ることができずに入口付近で止まってしまうこともある。

ああ、実際少し遠くに行き過ぎたようだ。『進撃の巨人』の壁外遠征のように、拠点を築いたら帰って来なければいけない。多分ここはまた考えなければいけないところなので、取りあえずまず原書版の日本語訳に取り組んでみようと思う。

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