絶対的な不足と過剰/知性とはひるまないこと/材料になるものとでっかいもの/根っことつばさ

Posted at 12/04/17

【絶対的な不足と過剰】

昨日は本当に体調が悪かった。夕方日本橋に出かけて本を見たりもしたのだが、何も買う気にならなくて高島屋の地下へ行ってよさそうな食べ物を探したのだけど、ナチュラルハウスでくるみパンを買っただけ。それからプレッセへ行って夕食の買い物。豆ごはんと切り干し大根と卯の花を買って帰った。

帰って買ってきたもので簡単に夕食。食べながら心を休ませ体を落ち着かせようと瞑想のテープ(iPhoneだが)をかける。だいぶ落ち着いてきた。8時に寝床に入る。かなりぐっすり寝たのだが起きたら1時。トイレに行ってもう一度寝る。目が覚めて3時。トイレに行ってもう少し寝ることにする。目が覚めて5時。もう明るくなりかけていたので起きることにした。


大分寝て、体が動くようになっていた。どうも絶対的な睡眠不足だったらしい。あとは絶対的な食べすぎか。もう一つ、絶対的な運動不足というのもある気がする。その辺を意識した方がいいと思った。起床して熱めのシャワーを浴びる。不調の時は操法や愉気でやるように脊椎を調べるように熱めのシャワーを当てていくとよい、というのを読んだことを思い出し、頸椎、胸椎、腰椎と何かありそうなところを探りながらシャワーを当てていく。自分の脊椎に触ることはできないし、なかなか操法の順番が回ってこないので自分でなんとかしないととは思っていたが、これはいい方法かもしれないと思った。背中の気持ち悪さがだいぶ解消した感じがする。滝行というのもあるように、水流の力というのは何か人間の力を本質的に呼び起こすものがあるのかもしれないと思う。

6時半になったので久しぶりにラジオ体操をやってみたが、こんなに激しい運動だったかと驚く。昨日もテレビを見ながら便秘ストレッチをやっていて腰が痛いなと思ったが、ラジオ体操は体が覚えてるからできるけどペースについていけない。普段この速さで体を動かしていないし、何とかついていこうとすると呼吸が止まってしまう。いい悪いはともかく、こういうものに本当に縁がない生活をしていたんだなと改めて思った。でも基本的には、このくらいは体を動かした方が快適な感じがすると思った。


【知性とはひるまないこと】

薄氷の踏み方
甲野善紀・名越康文
PHP研究所

甲野善紀・名越康文『薄氷の踏み方』。いくつか面白い、ヒントになることが書かれていると思う。「知性とはひるまないこと」。これは最初に読んだときは特に印象に残った言葉ではないのだが、最近は『進撃の巨人』を読んでいるせいか、不安とか恐怖とか勇気とかひるむ/ひるまないというようなことに反応する回路が自分の中にあるようだ。確かに、知っていることは怖くないし知らないと怖いということはあるし、脅威を正確に見積もる知性があれば不必要にひるむ必要がない。権威にぶつかったときにもそれがこけおどしなのか本当に凄いのかもすぐ見分けられるだろう。そういう意味では無鉄砲な意味でない勇気というものは知性と結びつく、少なくとも共同して働くものだ。と考えてよいなと思った。


【材料になるものとでっかいもの】

もう一つ、教育において大事なのは「材料」と「機動力」、そしてそれを区別して与えること、という話。普通の教育内容は「材料」だけど、それだけを与えて知識のフォアグラ状態にしても仕方ない、という話。名越氏の言い方では「子供にはでっかいものを見せろ」という話だ。子供は象のようなでかいものを見ると本当に目を丸くする。あれは見ていて面白いが、すげえと思って感心し、一度ひるんでからリスペクトする。チンギス・ハーンの話とかも残酷で苛烈な話があるから凄いと思うという面はある。というか私はチンギス・ハーンには特に感心はしなかったけど、白虎隊だとかやっぱりまねできない、と思うものはひるんで、感動して、やっぱり尊敬する、というところはあった。まあ考えてみると殿様への忠誠心とかよりもっとスケールの大きいものに感動した方がよかったのかなと今では思うけど。ああ、それでも私の子ども時代は「宇宙時代」だったから、宇宙飛行士とかには憧れていたし、天文学の巨大なスケールの話もすごく好きだった。それが現在につながっていないのは少々残念な話だけど。話を元に戻すと、子供がピアノが少し弾けるようになってから一流のピアニストの演奏会に連れて行くとか、まあそれは間違いなく目を丸くするだろう。私は実際の演奏会に行ったのは大人になってからだったからあんまりそういう効果はなかったけど。ひるんで、憧れて、そういう生きていくための機動力になるものを子どもには与えていく必要があるというのはその通りだと思う。

まあなんというか書いてみると常識的な話になったが、そういうふうに消化しておくことが私自身にとっても必要なことなんだろうと思う。こういう常識ということに関しても、何が常識で何がそうでないのか、もうだんだんわからなくなってきてしまっている時代だから、当たり前の常識と思われることでも、正しいと思うことはこれは維持すべき常識だとはっきりさせておくことが大事になってきているのだと思う。一見眠いことを言っているような本がベストセラーになる世の中なのは、それが正しいのだということにまで自信を失いつつある今の日本人の姿が反映されているのだろう。それは少しさびしいことではあるが、生き残りのための危機感の表れでもあり、変わっていくところと変わらずにあるところのはざまの中で、一人一人が価値観をはっきりさせながら生きていくための一つのよすがになっているのだろうと思う。

【根っことつばさ】

そう考えてみるときのう書いたアイデンティティというのもそういうことの一環ではあるんだなと思う。でもアイデンティティというのがむしろ桎梏であったり後ろ向きであったりするのに対して、価値観というのは前に進むためのつばさ、羽ばたくために必要な空気の抵抗のような感じがする。「翼をもつことと根を持つこと」というテーマを以前書いたことがあったが、根というのは果たしてアイデンティティのことなのだろうか、とも思う。今考えてみるとそれはむしろ、「今まで自分が生きてきた方法論」みたいなものといった方がいいのかもしれないと思った。農民なら大地に根差した生き方、武術家なら武術を追究する生き方がある。私はなんだろう、やはりみんなに「材料」を配りながらときどき「でっかいもの」を見せて「機動力」を引き出したりすることが好きだなと思いながら生きてきたことは確かだなと思う。自分自身がどこか遠くの、だれも見たことのない世界へ行って、誰も知らない世界の秘密に到達したい、という気持ちもやはり強いけど、それはむしろ「つばさ」の方だろう。

まだここは少し未整理だ。自分の気持ちの中で片付いていない部分があるが、はっきりさせていけるとよさそうだ。

このブログの文章は日々の思考の整理とか、同じようなテーマに取り組んでいる人がもしいたらそれが話題になるといいなと思って書いているような文章なんだなと今思った。だから自分の言いたいことの材料を書いたり、ないしはもっとびっくりしてもらい、心に機動力が生まれるような「でっかいもの」を書くためには、もっと違う形態、メディアを使わないといけないんだなと思う。まだそういうものは模索中だけど、その辺のところが整理できると、もっとまとまったものが書けそうだ。

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