本当の自分となりたい自分/死と再生の物語

Posted at 12/03/31

今日は朝から風雨強し。ぼうっと考えているとやる予定になっていること、やらなければいけないことなどが次々に浮かんでくる。今朝のうちに買い物に行ったり銀行や郵便局に行ったりもしなければならないのだけど、この雨。でも考えようによっては、この雨だからこそ土曜日でも店は空いているだろうという予測も立つ。物事はいい方に考えよう。悪い目が出たってダメージはそんなに変わらない。

朝のうちに職場の仕事を一つして、今日はモーニングページをじっくり書くことにした。何か書こうとしても自分の本音というよりその時考えてしまっていることを書いたりしていて、どうも奥深くに降りていかない文章が最近多いなと思っていたので、今日は「なんかやりたいという気持ちはあるけど、できないなあ」みたいな「~なあ」という形の文で書いて行こうと思って描いてみた。これだとわりといいかもしれない。

いろいろ書いてみて、ここ最近書いていた、「本当の自分」と「なりたい自分」というのは、「考えている自分」と「実行する自分」ということなのかもしれないと思った。「本当の自分」というのは考えたり感じたり感動したりしている自分、自分の向こう側の世界に行って何かを見つけ出して来る自分、というような感じなのだけど、「なりたい自分」というのはとにかく考えたことを実行して形に出来る自分、だというふうにも言える。

自分は考えることについてはまあ無根拠に自信があって、実行することについては無根拠に自信がないというところがあるのだけど、そういうふうに分けて考えると考えるということについてもまだまだ詰めが甘いな、というか考え方、感じ方、向こう側の世界からの何かを拾って来る拾い方というのもまだまだ全然できてないなと思ったし、実行するということについてはとにかく勢いが大事、みたいな感じでとにかく踏み込んで行って遮二無二何かをやり遂げる、的な感じでは出来てはいた、つまり自信のなさのほどには出来てないわけでもないということはあるのだけどでももちろん何というか勢い任せの不安定な感じがあって一つ一つの詰めが十分でないというところがあるなと思った。

私は何かに熱中してしまうとまわりが見えなくなるところがあるので、たとえばときどき突然感じる怖さとかが、そこに問題があると認識するということに関しての重要なアンテナになってるんだなと思った。ただ問題なのは怖いと感じるとからだがすくんで何もできなくなったり、思考が暴走して下手をすると変な行動に走ったりすることであるわけだけど、でも重要なのはそういうときには冷静になって腹に力を入れて自分の全体性を回復することで、全体的な観察、全体的な思考を取り戻すことが重要なんだと思う。思考だけとか感性だけとか感情だけとかで動こうとするとするのではなく、それらを落とし込む大きな自分という器の中で自分のいろいろな部分をコラボレートさせて問題に取り組むことが万能に、少なくとも出来る限りの全力につながる。

ピアノの森 1-19巻 セット (モーニングKC)
一色まこと
講談社

また『ピアノの森』を読み返した。私が好きなのは丸山誉子との関わりのエピソードが特になのだけど、初めてであった小学生の大会の予選会でのエピソード、落選したカイに代わり本選で「自分のピアノ」を弾き切って審査員特別賞を獲得したエピソード、そして腱鞘炎になってそれでもピアノにこだわろうとするときに思いがけずカイと再会して指を完治させることを誓うエピソード、この三つは何度も読み返したくなる。そして読み返すたびにぽろぽろ来てしまう。

一体これらのエピソードのどこに読むたびに私に我を忘れさせてしまうものがあるのか、今までちゃんと考えてなかったのだけど、というかその我を忘れること自体に夢中になっていたようなところがあるのだけど、でもそういう作品を自分も書きたいのであれば、それがなぜなのかを考えなければならないと思った。ピアノが好きなのに、ピアノにいろいろな思い入れをし過ぎてピアノを弾くことがとても重くなってしまっていて、それにがんじがらめになってしまう、というのが誉子のキャラクターなのだが、それはピアノを弾くことに誇りを持っているけれども自分のピアノが本当には好きになれず、いつまでも本当の自信が持てずに苦しむという雨宮修平のキャラクターとはまた違って、私の場合は誉子のケースの方により思い入れをしてしまうということなのだろう。その両者ともが天衣無縫なカイのピアノに強い憧れをもつというのはよくわかる。自由で、輝いている個性。

もちろん、カイがどんなピアノを弾くのか、本当には分からない。三人とも、マンガのキャラクターであって本当にはピアノを弾くわけではないからだ。荒削りな力強さをもったピアノ、人間業とは思えないピアノ、大地から生まれたような曲に天成の感性を発揮するピアノ。そういうヒントと、ピアノを弾いているカイの姿、そして背景の森のピアノ、そういうものだけですべてを想像させる、聞いている気にさせてしまうという凄い作品なのだが、逆に作者はものすごく消耗するだろうと思う。

しかしこう書いてみても、自分がなぜ修平より誉子の方に思い入れをしてしまうのかがよくわからない。誉子は腱鞘炎で、修平は阿字野とカイのピアノを聞いたショックでピアノが弾けなくなる。カイがピアノを弾けないのはそういう個人的な理由ではなく、理不尽な社会的理由からだ。しかしカイは阿字野の援助で、修平と誉子はカイのサジェスチョンで再びピアノを弾けるようになる。

そう、いくたびの死と再生の物語。このマンガの中で登場人物たちは何度も死や絶望に直面し、そのたびに乗り越えて、ステージの喝采の中に戻ってくる。そこに人生というものを感じるのだろう。このテーマは、もう少し考えてみよう。

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by Luke Peterson

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