理想の別れ方:「俺たちにはパリがある」映画『カサブランカ』/千駄ヶ谷

Posted at 11/07/26

【理想の別れ方:「俺たちにはパリがある」】

映画『カサブランカ』を見た。

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もうこれで何度目かわからないほど見ているのだけど、多分前回見たときからは20年くらいはたっている。もともと好きな映画ではあるのだけど、あまりに古典過ぎて、自分の作品の製作に関わりのあるものだと意識したことはなかった。でも今回久しぶりにテレビでこの映画を見てみて、自分の作品作りにかなりの部分で直接的に関わってくるということがわかったし、自分が生きてきた中で起こったさまざまなことに対しても、ある答えを示してくれている映画なのだということがわかった。20年前にはそんなこと、考えもしなかった。As Time Goes By.

一番印象に残ったのは、「俺たちにはパリがある」We'll always have Paris.というせりふ。実はこのせりふ、今までは全然印象に残っていなかった。驚くべきことだが。昔は本当に雰囲気だけで映画を見ていたんだなと思う。本当にストーリーに関心がなかった。今回この映画を見て、実に古典的な筋立てになっていることに実は驚いたし、そのシンプルさが実は自分がやろうとしていたことに近い、というかこの場面って本当はこういう意味なんだな、みたいなことがいろいろとあった。またそれは、実は自分がやろうとしているのは、本当に古典的なモデルなんだなということでもあった。

「俺たちにはパリがある」。What about us?私たちはどうなの?とイルザに聞かれてリックは、We'll always have Paris.と答える。俺たちは忘れていたが、昨日思い出した、と。すばらしい思い出を胸に、未来に向かって、現在を生きる。あまりに完璧なストーリー。あまりにシンプルで文句のつけようのない強固なストラクチャー。

このせりふ、昔は、だから何?と思っていた。俺たちにはパリの思い出がある。だから、また会えるさ、と言いたいのか?とか。そうじゃない。ああ、何もわかってなかったなあと思う。これは別れのせりふなのだ。自分たちは愛し合っている。愛してるけど、お別れだ。愛している「けど」と言う余韻を残しつつ別れる、というのがお互いに満足のいく別れ方なのだと。

もちろんこれはボギーとバーグマンの演技であって、あんなふうにかっこよくは行かないよ、と思ってしまうけれども、これはいわば、「理想の別れ方」「理想の恋の終わり」を描いたものなのだ。

女に裏切られて、雨の中一人パリを落ちるのが最悪の別れ方だとしたら、思い出を胸に、現在の愛と未来への希望を持って別れる、というのが理想の別れ方なんだな、と思う。誰が別れても、これ以上の別れ方はできないだろう。恋が終わるものならば、終わり方が肝心なのかもしれない。自分が一番苦手だったのがこれなんだな、と反省する。そして、それは物事に取り組むことすべてにおいて、「理想の別れ」はあるのではないかと思った。たとえ自己満足であっても、理想の終わり方、理想の別れ方、理想の死に方は考えておかなければいけないと。

私が一人の人と別れるとき、「私にとって大きな何年間だったよ」と言われたことがある。だから何なんだ、とそのときは思ったのだけど、今思うと、向こうにそういうことを言わせてしまったんだなと思う。自分は本当に自分のことしか考えられてなかったんだなと。恋というものが自分たちの間だけではなく、また自分たちの間でも、どんなに大きな恋でも、それをするのが目的で生まれてきたような恋でも、一生のうちのある時代をしめるものに過ぎないということが見えてなかった。そんなこと、この年になるまで気がつかないと言うのもよっぽどのことなんだけど。

「俺たちにはパリがある」。これは、自分たちの過去を整理するためのせりふなのだ。過去をいい思い出として、美しい思い出として、心の引き出しにしまうことが、前を向いて歩いていくための秘訣なのだと。過去を引きずらないためには、過去を美しいすばらしいものとして胸の中にしまう。別れのときには、愛と感謝の言葉を。そんな洒落たこと、自分にはできなかった。死ぬときに、周りの人たちに感謝を告げるのも、生きている人たちに悔いを残させないための、思いやりなんだなと思った。

そしてこの裏には、実現しなかったストーリーがある。それはラズロを、つまり世界を捨てて、自分たちだけの愛の幸せのために生きる、「世界なんて滅びたってかまわない、私たちが愛し合うことさえできれば」というある種究極の背徳の言葉がある。そしてリックは一度はイルザをその喜びに身を委ねさせて、でも「やはり世界を救わなければならない」と押し戻す。そうか、考えてみれば、この『カサブランカ』というポジのネガとして作られたのがオーソン・ウェルズの『第三の男』なのだ。世界のために愛を犠牲にさせた男から、女は一顧だにせずに立ち去る。同じ第二次世界大戦、同じナチスを敵として、このネガとポジ。そして裏側にこれだけの深い闇の、そしてでもそれだけに狂おしい愛の世界を想像させながら、雨の中の別れを演出する。一人でパリを落ちる駅での絶望の雨ではなく、二人をアメリカに脱出させる空港の希望の雨。伏線も対比もいちいちこんなところまでというところまで作りこまれている。

「覚えてなきゃいけないよ、キスはただのキス、ため息はただのため息だと。それは時の流れに従って適用される、原理的な事柄なのだと。」というアズ・タイム・ゴーズ・バイの歌詞も、このテーマを味わい深くさせる。そしてため息sighという言葉も、キスと対比させて使われているのだから、もっと深いことを言っているんだということにも気がついた。どんなに愛し合っても、それは思い出なのだ、時が過ぎてしまえば。

実際のところ、この映画にはあまりに単純な正義が適用されているところとか、ある種のオリエンタリズムとか、突っ込みどころはたくさんあるのだけど、単純であればこそこうした強い構造のドラマが成立しえているわけで、まあそういうところに突っ込むのは止しにしたい。実際、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」の歌詞を確認しようとしてYouTubeでイルザがサムに「あの曲をもう一度弾いて」Play it, play it again, Sam.というところを見て、もうどうしようもなく持っていかれそうになった。そのときのイルザの表情の意味。センチメンタルな男だな。


【千駄ヶ谷】

昨日はまた千駄ヶ谷へ。駅で待ち合わせて自然食のカフェへ。前に行ったときはだいぶ遠回りをしたが、今日は調べておいたのでまっすぐに。鳩森神社におまいりすると、奥に将棋会館が見えた。『開け!駒』に出ているのとおんなじだなと満足する。植え込みの竹が揺れるのを見ながら食事を済ませ、小説の話とか、仕事の話とか。そのあと千駄ヶ谷小学校の横を通り、明治通りまで散歩。小路に戻ってくると小火があったらしく、消防車がたくさん来て野次馬がわんさか。マンションの二階からとかのぞいている人がたくさんいた。でも大事ではなかったみたい。何かゴムかプラスチックが焼けるような臭いはしたけど。

それからアフタヌーンティーをやっている会社の直営のカリフォルニアファッションの店に入って、服を見て、雑貨を見る。そこで売っていた自然素材の石鹸を買った。シダーの匂いがする。やわらかくて、すぐ水に溶けてしまうのだそうだ。それからカフェに入り、しばらく話をする。窓際のカウンター席に座って、窓の外を見ながら話す。外は銀杏並木。車が動いたりとまったり。道行く人が時々中を覗き込む。前に来たときは自分たちがのぞく立場だったのを思い出すと可笑しい。ずいぶんゆっくりと話をして、雰囲気に浸ってしまったのだけど、そのせいかだいぶ冷えてしまった。でもあの窓からの景色、時どき室内に視線を戻したときの感じは、よかった。

駅に戻り、総武線でお茶の水に出て、中央線に乗り換えて東京駅へ。丸の内の丸善で本を買って、東京駅で別れる。自分は思い出してまた丸善へいって本を買い、地元に戻って夕食の買い物をして帰った。

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