本音をぶつけ合える場所にいないと人間は成長しない、そして人間は成長が止まると人の幸せと自分の不幸を数えるようになる

Posted at 11/07/25

【本音をぶつけ合える場所にいないと人間は成長しない、そして人間は成長が止まると人の幸せと自分の不幸を数えるようになる】

昨日の深夜にブログを更新して、それからほかのところにもいろいろ書きなぐっているのでブログに書くべきは何かということをわからないまま書いているのだが、考えてみればいつもこれを書こうとは思うけど何か全体として作ろうと思って書いているわけではないのでまあとにかく何か書いてあればいいんだろうと思う。と書いてしまうと暴言ぽくて素敵だが、何か自分の思考の足跡が書いてあれば少なくとも自分があとで読んでそうかこのときこんなことを考えていたのかくらいは感慨がもてるのでまあそれでいいんだろうと思う。というか少なくとも、今感じていることをジャストに書くのがリアルタイムでも意味のあることなんだろうと思う。

昨日思っていた、というか思いついたのは今朝かな、ということの中で一番大事だと思ったこと。今朝は何しろ起きてから超短編を一本書いてしまったので、書いてることはかなりあるのだけど、すごく大事だなと思ったのは、本音をぶつけられる(ぶつけあえる)場所にいないと人間は成長しない、ということ。今思ってみて、学校現場が辛かったのはそういうところなんだと思う。ぶつけても何をやっても賽の河原の石積み。右の耳から入って左の耳から出て行くような人ばかり。決して悪い人たちじゃないんだけど。それから自分の人生の中でいろいろなことを振り返っていて、一番ターニングポイントになるのが中学一二年だったなと思い当たったこと。それまで自分の好きだったこと、愛していたこと、自分の習慣、考え方、そういうものすべてが否定されたのが中学一二年だった。特殊な環境にいたせいもあって中学生からはある程度働かなければならなかったし、自由時間が減って自由に本に浸れる時間も減った。中学は田舎の学校だから男子は坊主頭が校則でそれにも耐えられなかったし、部活が必須でやりたくもない卓球部に夜遅くまで拘束された。登校拒否になってしばらく学校に行かなかったりもしたが、鳥は飛ばなければならない、人は生きなければならない。何とか現実を受け入れて学校にも行くようになったが、そこで自分の中の大切な何かが死んでしまったのだと思う。

まあそういうこと、多くの人に起こることなんだろうなとは思うのだけど。私の場合は違うけど、そこで「いじめ」とかが原因になってそういう経験をする人は多いんだろうと思う。そこで自分を殺してしまう経験があったかなかったかでその人の一生はかなり左右される気がする。

とにかくまあなんというか、そこで自分は要するに自分を殺して耐えることを覚えたということだ。とにかく耐えて、大人になったらここから出て行こう。「ファイト!戦う君の歌を戦わないやつらが笑うだろう/ファイト!冷たい水の中を/凍えながら上って行け」ではないが、「薄情ものが後ろ足で田舎に砂かけて」みたいな歌詞は聴くとどうも涙ぐんでしまう。

その中でであった希望の翼になりそうなものが、ひとつはマグリットの絵でもうひとつは野口整体だった。それから映画『旅の終わり』。それからシルクロードへの幻想。ギターを弾き始めたのもこのころだったけど、これはなんと言うか心を癒すための道具というか、奴隷の音楽のようなものだった気がする。井上陽水やビートルズは聞いたけど、ぼくはビートルズにはなれない、ということはわかっていた気がする。出会えたのは結局、アートと、そして身体。この時期に文学に出会えなかったのは後々大きかったなと思う。でも多分、『旅の終わり』なんかに出会ったのは、結局文学の代わりだったんだろうなと思う。あの映画は映像としてもすごく印象に残っているけど、やはり物語として受け止めている部分が自分にとっては大きいから。

中学のときの音楽のほうが美術より成績はよかったし正直得意だったけど高校で結局美術を取ったのは、音楽よりアートのほうが自分を遠くに連れて行ってくれそうな気がしたからなんだなと思う。今でもやはり、音楽は自分が戦うべき主戦場ではなくて、自分を癒してくれる何かだという部分が大きい気がする。

身体性とアート性と物語性。この三つが自分の中ですごく大事なものだなと思う。それを全部かなえたのが大学のときから始めた演劇だったのだけど、結局長く続けられなかったのは、自分が自分のテーマを追求するというよりも、優れた演出家についていくだけという形になってしまったからなんだろうと思う。自分の身体は、舞台上において、ある方法論の中では生きるけれども、どんなものでもこなせるというわけではない。また、アートは好きだけど自分でそれを創造できる技術を身につけたわけではない。自分に作り出せるのは、物語だけだと思った。しかし自分がやっていた劇団ではその部分において古典作品の上演の方向へ舵を切ったため、自分のやりたいことと劇団の方針が一致しなくなってしまったのだ。

試行錯誤の中で戯曲の作法はそれなりに身につけて行ったけれども、それを小説に移し変えることはほとんど不可能だということを悟るのにそんなに時間はかからなかった。小説は小説として一から書かなければならない。というのも、自分が書いていたのが野田秀樹や唐十郎の影響を受けた前衛的・小劇場的な戯曲だったからで、リアリティの根拠が身体そのものにあったから、言葉はある種の小道具だったからだ。小説はそうは行かない。あらゆる芸術と小説が異なるのは、ほかのアートでは言葉は説明するための道具なのだけど、小説だけは言葉がアートの本体だということだ。言葉がすべてを担わなければならない。そういうものを担わされた言葉は、ほかのものとは違う成立の仕方をしているのだ。その感じをつかむまでにいったいどれだけの試行錯誤と年月を必要としたことかと考えてみると気が遠くなる。

ああ全然話がずれているな。人間というのは本音をぶつけ合える環境にいないと成長しないということを言いたかったのだ。今時分の作っている仕事場は割りとそういう感じになっている。そういう風な言葉で意識して作ったわけではないのだけど、自分自身がそういう欲求を持っているので自然にそういう風になっていったんだろう。今までの人付き合いを考えてみても、本音をぶつけ合える人と付き合っていたときには確かに成長していたなあと思う。その人と付き合う前と分かれたあとで、全然違う自分になっている、という相手というのはいる。いい意味でも悪い意味でもあるけれども。

ただ、本音をぶつけ合える環境というのはおいそれと獲得できるものではない。自分からそういう風に雰囲気を作っていかなければならないという面もあるし、変えようと思っても変えられないこともある。結局そういうときにはそこから離れるしかない、ということもあるんだということは常に考えておかなければならない。我慢しすぎてはだめだ。自分が成長できなくなってしまう。そして成長し続ける限り人は幸せだけど、成長が止まってしまったら人の幸せと自分の不幸を数えるようになる。そんな風に自分は生きたくないなと思うし、そういう風にしなくても人間は生きられると思う。佐渡裕の本を読んでいると、本当にそう思う。音楽家という仕事が素敵なのは、ずっとそれを続けていけるからなんじゃないかと思った。

ああ、日本のポップスについても書くつもりだったんだけどでもまあそれはツイッターでつぶやいたことを展開するだけなのでまあ書く気が残っていたらまた改めて書こうと思う。

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