佐渡裕『僕が大人になったら』/ブエノスアイレスのミケランジェリ/春をつくりだす男

Posted at 11/07/20

【佐渡裕『僕が大人になったら』】

僕が大人になったら (PHP文庫)
佐渡裕
PHP研究所

昨日。台風が近づいているということで予定通り特急が動くかどうか心配したのだが大過なく、数分遅れで諏訪につくことができた。東京では電車に乗る前に丸の内の丸善で本を探し、いろいろな本を見たのだけど佐渡裕『僕が大人になったら』(PHP文庫、2011)を買った。この本は1990年代に『CDジャーナル』に毎月連載したものだと言うが、彼の活動がリアルタイムに記されていて臨場感があり、大変面白い。今はまだ170ページ(解説まで含めて全305ページ)なのだが、最初はすらすら読めていたのに読んでいるうちにだんだん早く読んでしまうのがもったいなくなってくる感じがあって、今はときどき自分の今持っているテーマについて考えたり(昨日書いた高校生への自分への言葉の延長上のこととか、いのちと人間の作りだした技との関係についてとか)音楽を聴いたり他の本を読んだり小説の原案を少しずつ書いたりしながら思いだしたように読んでいる。

すごく印象に残ったことを一つ。京都芸大で卒業の危なかった佐渡氏が英語の追試に行ったとき、英語の先生が「今日のために勉強して来ましたか」と言ったのだという。「はい…」と自信なげに答えた彼に先生は、「じゃあ今日はもう帰ってもいいですよ」と言ったのだという。そして「これから佐渡君はきっと英語が必要になって来る。君が音楽を好きなように、英語にも興味をもつときがやって来る。それだけを君に伝えたかった。では卒業しても頑張って」と言ったのだそうだ。

それだけでも感動したのだが、4年後にアメリカの指揮者のオーディションを受けることになったとき、実際に英語が必要になったのに何も喋れない彼はその先生を訪ね、「どうしましょう」と打ち明けたのだそうだ。すると先生はオケの練習のときに使う言葉を少し教えてくれ、こういったのだという。

「佐渡君、セルゲイ・クーセヴィツキーを知っていますか?ボストン・シンフォニーの指揮者です。彼は、ロシアからボストンに来た頃、『カンタービレ・プリーズ』しか喋らなかったそうです。大丈夫ですよ。だから音楽は素晴らしいのですから…」

クーセヴィツキーのエピソードはもちろん素晴らしいが、何よりも先生の佐渡氏を思いやり、励ます心が素晴らしく、そしてこんな言葉を先生に言わせた佐渡裕という人の素晴らしさを思って感動せずにはいられなかった。

書きながら思ったが、この人の書くエピソードは短くまとめようと思ってもまとめられない。その言葉一つ一つがその言葉通りに再現されるべき感じがする。指揮者の仕事は再現芸術だというけれど、まさに読む人に対してもそれを強いる言葉が出る人なのだ。

山下洋輔とパリのラムルー管弦楽団で共演し、ガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』を演奏した後、彼がアンコールで演奏したのはラヴェルの『ボレロ』だったそうだ。そしてこの『ボレロ』を世界初演で演奏したのは、このラムルーだったのだという。山下洋輔のピアノはそんなに聞いたわけではないけれども、このエピソードを読むだけでその粋な計らいに素晴らしい音楽家なんだなあと思ってしまう。

「自信とはありのままの自分を信じられること」という言葉。あたりまえと言えば当たり前だけど、伊良部の活躍した年の記述だから1998年か9年だと思うが、私より一つ上の佐渡がそういう考えに達したというのはすごくよくわかるなあと思った。37歳か8歳、その時期にそのことに改めて気づく。私はちょうど教員を辞めたころで一つの航路が終わり、ぼろぼろになって再スタートのスタートラインに向かっている頃で、まあ境遇は全然違うが、しかし佐渡という人は本当にそういうことでも羨ましさとか僻みとかそういうのをもたせないところがいいなと思う。頑張っているのは確かなのに、どこか常に自然体であけっぴろげ。すごいなと思う。


【ブエノスアイレスのミケランジェリ】

Arturo Benedetti Michelangeli Plays Various Composers
Arturo Benedetti Michelangeli
Membran

先日山野楽器で買ってきたミケランジェリを何枚か聞く。1949年にブエノスアイレスで録音されたベートーベンのピアノソナタ3番とショパンのマズルカ、アンダンテスピアナートと大ポロネーズがとにかく良くて、音楽の世界に浸った。録音は決してよいとは言えないのだけれど、音楽が聞こえて来るという感じだ。ベートーベンの3番などは決して複雑とは言えない旋律なのに音の一つ一つが違う、ということなのだろう。何というか、こういう音楽を語る言葉が私には足りないなと思う。しかし、一度音楽が聞こえて来ると、つまりこの人の音楽の本質みたいなものが聞こえたと思う体験をすると、何を聴いてもよく聞こえるようになるという感じがする。昨日は遅すぎると感じていらいらした『葬送』も今聞きなおしてみるとこれがこの人の自然なペースなんだなと思う。相手の呼吸が飲み込めたということなのだろうか。

とか書いていたらいきなりミスタッチがあった。これは昨日聞いたのとは違うバージョンだな。1977年のバチカンでの録音。ずいぶん繊細な表現をしている。


【春をつくりだす男】

バルテュス、自身を語る
バルテュス
河出書房新社

『バルテュス、自身を語る』。この本も少しずつ読んでいる。いま224/279ページ。「人は自分の過去を見直さなければなりません。しかし軽やかに、春を告げる最初の葉っぱが、枯れたと思った小枝に緑の薄い膜を残して現れるように…です。」人は自分の過去のイメージの中からよいものを獲得し、表現する、ということなのかなと思う。

カミュはバルテュスに著書を送るとき、「春をつくりだす君へ、私の冬を送る」と書いて送ったのだという。カミュにとってバルテュスは、「春をつくりだす」男だったと。アルトーはバルテュスに、「まず光と形から」絵を描いていると言ったのだという。「私は一生を通してこの光を待ち続けました。」光の訪れを待ち、春をつくりだす。私もそんな作品が書けたらいいなと思う。

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