回復してきた気がする/あらすじとかたましいとかこころとか/人が生きるということは不自然なことなんじゃないか

Posted at 11/06/24

【体調も頭の働きも回復してきた、気がする】

蒸し暑い。長野県も今日は夏という感じだ。今年初めて半袖で職場に出てみたが、それでも汗がじとっとする。肘を冷やすと胃が痛くなりそうで今まで警戒していたのだけど、ちょっと今日は様子を見てみよう。午前中松本に出かけて体を見てもらって、かなり回復しそうな予感があったので何となく体調を強気に捕えているのだけど、はてさて。

Tweenについて書いてくれた方があったのでインストールしようとしたら.NET Frameworkというものが必要だといわれ、インストールしているのだがずいぶん時間がかかる。時間がかかるのでブログを書き始めた。まだもう少しかかりそうだ。

朝起きたときに一度にいくつものことが頭に浮かんでしまい、というか本当は順番なのだがノートに書きとめようとする前に次のことが頭に浮かんでくるという感じで、忘れてしまったらどうしようと思ったのだけど今日は全部書きとめられた。だいぶ頭の働きもまともになって来たようだ。

とここまで書いたところでインストール完了。Tweenを起動している。…少し使ってみたが、なんというかてきぱきと情報を入手するにはいい感じだが、のんびりと人のツイートを読むにはちょっときつい感じ。まあ時と場合によって使い分けるということだろうか。また使いこなせて来たらレポートでもしようかと思う。

朝まず最初に思ったのは、リラックスするということは全身を滞りのない状態にするということで、具体的には伸びをしたり活元運動をしたりということなんだなと思ったこと。からだと心を滞りのない状態にすること。

【あらすじとかたましいとかこころとか】

二つ目は、小説を送るときにあらすじを書かなければいけないのだが、これがあまり得意でない。なぜかなあと思っていたのだが、私は小説の諸要素のうちストーリー展開を一番考えるタイプなんだなと最近は思っていて、でもどういうタイミングでどういうふうにばあっと展開させるかということに心血を注いでいるのであんまり簡単にそういうことを書きたくないということ。それから展開だけで中身がわかるような作品ではないぞという思い。展開だけを書いてみるとバカみたいな感じになってしまったりする。もともと小説というものは無理のある展開をいかに自然に読ませるかということだというふうに考えているところもあるしなあ。まあとにかく、あらすじとか内容紹介というのは必要性がよくわからないというか、もしそれだけ読んで中身を読むかどうか判断するならちょっと違うだろうとも思うし。最初に作品を発想した時のあらすじが多分一番すっきりしているのだけど、実際に書いてみると全然その通りにはなってない。つまり、あらすじで読んで面白い話と中身を読んで面白い話は違うんじゃないかという気がする。まあいいや。とにかくもっとうまくあらすじを書けるように考えないといけないなと思う。

三つ目。今までの小説はどうも「たましい」のレベルの話が多かったのだけど、次の作品は夢とか希望とか、「こころ」の世界の話を書きたいなと思ったということ。どうなんだろうな。私は「たましい」志向が強いのでそういうものがうまく書けるかやってみないと分からないのだけど。

四つ目。たましいの世界の中でも、生死のレベルというより倫理のレベルの話が多くて、でも書いてみるとけっこうそういうことって相対化されてきたりして、今まで自分がどういうことにこだわって来たか、つまり「いかに生きるか」ということばっかりを考えてきたんだなということが分かったという感じ。

【人が生きるということは不自然なことなんじゃないか】

五つ目。人が生きるということは不自然なことなんじゃないかということ。数学とは不自然な世界、人口の世界だ、ということを数学者の森田真生氏が言っていて、人間に本当に必要なのは自然なことよりもむしろ不自然なことなのではないかと思ったということ。つまり創作、クリエイションということ。これは昔、自分が芝居をやっていたときに演出家がそういうことをぼそっと言ったことがあって、そのことの本当の意味がよくわからないな、と思っていた。つまり創造というのは本来神の仕事であって、人間がそれをやるというのは本来おこがましい行為なんだ、というようなことを彼は言っていた。おこがましいかどうかは分からないが、面白いことは確かだなと今では思う。ただ、創造というのは不自然な行為であって、である以上はそれなりの覚悟のようなものが必要なんだということは思う。原発の開発者にしたってchimpom↑にしたって、そういう覚悟が足りないということが根本的な問題だったのではないかという気がする。つまり、火を使うときにはそれだけの危険を覚悟し引き受けなければならない。原子の火を使う人間の覚悟が、やはりどこか麻痺していたものを感じる。まあそんなこと。使ってはいけないかどうかは大きな選択肢だが、不自然なことをやるのが人間だと私は思うし、やったらいけないとも必ずしも思わないが、魔法使いの弟子のように魔法の止め方を知らないために起こった現在の惨状にだれも責任が取れないというような状態は痛烈に反省すべきことだと思う。

だけどまあ、創造というものはそういう怖さを持っているということがまず心すべきだということを確認したうえで、でもそれを乗り越えて新しいものを作りだしていくのが人間なんだと思う。

同じようなことはモーニングの「レンアイ漫画家」を読んでいてもあった。主人公アイコの姉が、「自然な流れで結婚したい」というアイコに「結婚て不自然なものよ」と言い放つ。そう言われてみるとそうだよなあと思うのだ自分の経験から。あまりに不自然過ぎて私の最初の結婚は崩壊したが、でも言葉を変えていえば結婚相手とうまくやっていくということ自体がある種の創造的な行為なのであって、「自然」な行為ではない、と言えばいいんだろう。「自然な流れで」とか思ってるからなかなか結婚できない人が多い、ということもまた事実だろうなと思った。

もう一つこれはネットを見ていてなるほどと思ったのだが、精神科医の名越康文氏が「人間のコミュニケーションの基礎にあるのはかなり反社会的なものだ」と言っていることだ。つまり人間の最初のコミュニケーションは、「泣くこと」で「自分が不快であるという怒り」をことを伝えることだ。そして親が「ごめんねー」とかいいながら不快を解消してやる。空腹だとか、排尿・排便による不快感とか、眠さによる不快感とか。コミュニケーションの根本がそういうものだとしたら、「不満ばかり述べてブツブツ言っているタイプ」が最も自然な人間だということになる。そういうふうに考えれば、「仲良くする」ということ自体が、先と同じになるが、かなり創造的な、いいかえれば不自然な行為だということになるわけだ。

まあそういうわけで人間は日々創造的な行為、不自然な行為を必要としている。しかし自然に反する行為をすることで必然的にリスクも生んでいる。そこをきちんと見つめることが生きていく中で根本的に必要な行為なのではないかということを考えたのだった。

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