情報迷宮/定刻主義/理性と感性の相克/はやぶさと原発/荒川土手まで散歩

Posted at 11/04/04

早いうちにブログを書いてしまおうとPCの前に座っているのだが、ついついツイッターを見たりして情報の海に取り込まれがちになってしまう。しかしそういう自分であるということを逆に発見してそうなんだなあと感心したりもする。世の中をある程度自分なりに知っているという思いがないとなかなか安心できないところが多分あって、そうやって生きてきたんだろうともう。だから今回、耳慣れない知らないことがたくさん出て来るととにかく知ろうと思ってしまう。そうすると、芋蔓式にいくらでも知らないことは出てくるし、新しい情報もでてくるので、一度それに触れると離れられなくなってしまう。そしてそれは決して知り尽くすということは出来ないし、府とそこに立ち寄ってしまうと二度と出てこられない迷宮のようなところがこうした情報にはある。まさに情報迷宮。

そんなことばかり考えていると、自分が一体普段何を考えていた人間なのか忘れてしまう。まあ普段考えていることが偏っていたんだなあとは思うけれども、それでも自分のセンター(中心線)をそんなに動かしていいものでもない。動かすなら動かすなりの根拠やあるいは自分の立ち居地の変更が必要だが、ネットでそういうものにはまったところでリアルの立ち居地が変わっているわけではなく、やらなければならないことは変らないのだからそういうものに振り回されていてはまずい。そういうことに関心のウィングを広げた、という程度に留まっておかないといけないのだけど、今の状況は新しい領土が広がりすぎてそちらに国力を取られてしまったという東ドイツを合併した後の西ドイツ状態。原発や災害対策に対する見方、意見のようなものはやはり自分なりに持っておくべきだと思うけれども、それが自分の生き方の、あるいは生きる道の中心になることはないだろう。いま、ツイッターを読んでいると誰も彼もがそういうほうに走り出している印象を受けるが、それは絶対印象に過ぎなくて、自分の本業だって疎かにしているわけではないんだ。そういうことを見誤らないようにしないといけない。俺全然勉強してないぜ、と友達に言われてそうなんだ、と自分も勉強しなかったらそいつは100点とって俺は0点だったって高校生状態になってしまう。

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ああそうか、最近一体なんでブログがうまく書けないのかと思っていたら、日常記録的なことを書かなくなったせいだ。日常記録というのはとりあえず常に書くことがあるのだから、ちょっとそういうことを書いたほうがカタストロフの世界から日常に戻ることが出来る気がする。

ただ日常雑記的なことを書くと、私の場合理性ですべてを統制するスケジュール至上主義――私は定刻主義と読んでいる――に支配されがちな性癖がでてきて、そこのバランスの取り方が難しい。自己を統制する自己と統制される自己の不自由な関係。しかしその統制から解放されたところで自由になるわけではない。理性も感性も自由になるためには、理性も感性もまたそれぞれが自立した存在である必要があるのだろう。そのあたりの訓練が、自分自身でもまだ足りてないなと思う。やりたいことマップを作ったり、活元運動をしたり、ウォーキングをしたりとか、このブログを付けるのもモーニングページを書くのもアーチストデートに出かけるのも(遊びにいくことは明確にアーチストデートと位置づけた方がよさそうだ)すべて理性と感性の自立のための試みと言っていいかもしれない。

定刻主義に支配されがちになったのは、いつ頃からだろう。もともと、大学受験の頃から計画を立ててスケジュールをこなしていくのは得意なほうではあったが、その絶対化というか物神化がはじまったのはいつ頃からなんだろうか。芝居をやっているころも教員をしている頃も、スケジュールどおりに物事を進めることの難しさというか、自分がそうやっても人がそうしてくれなければ出来ないということが多数あって、そういうのが我慢できないようなところが自分の中に出てきてしまい、そういうところから離れてもそういう人に向けていた定刻厳守のリゴリズムが自分自身に向けられるようになったということはある気がする。特に最近は、基本的にすべて自分でスケジュール管理をして自分が思ったように行動できる環境になった(そういうことを実現した)ために、特にそういう傾向が強くなっている。つまり自分で自分の首を絞める、自縄自縛の状態に陥っているのだ。

スケジュールは自分で管理できても自分の体調は必ずしもそれについてくるわけではなく、また仕事は自分で決めただけすればいいというわけにも行かなくて期限が区切られた仕事はどんどん入ってくるわけで、そういうこまごましたどうでもいい仕事をこなすのに定刻主義的な厳格主義が爆発して自分だけが被災してしまうような感じになっている。

なんだかそれは馬鹿馬鹿しいし、そういうものをコントロールできる自分、切り捨てるところはちゃんと切り捨てられる自分であるために自立した理性と感性を持たないといけないなあと思っている。

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一昨日の夜に上京し、夜はツイッターで知った江頭2:50の動画などを見ていたら寝たのが4時くらいになってしまって、きのうは7時には起きたので睡眠時間が足りず変な感じになってしまった。午前中は休みを取るためにひたすらゆっくり。1時過ぎにアリオ北砂に出かけて弁当など買う。タイヤキを買おうと思ったら小豆がちょうど切れててゴマのにした。月餅の中に入ってる餡みたいな感じだった。そのままゆっくりしていたのだけどどうも調子が出ない。とりあえず動いた方がいいかと思い、5時過ぎに出かけることにした。

道を歩きながら自分の姿勢のことなど考える。どう歩くのがいいだろうとか。なんとなくデューク更家のウォーキングの本に書かれていたようなことを思い出したりしながら、かかとと爪先の足の運び方、腰と膝の伸ばし方など調節しているうちにそうかこういう歩き方ならいいんだという歩き方がわかった気がした。桜もだいぶ咲き始めている。

バルテュス、自身を語る
バルテュス/ヴィルコンドレ
河出書房新社

大手町に出て、神戸屋をのぞいたあと丸善で本を見る。いくつもいろいろな本を見たが、結局バルテュスのインタビュー本、バルテュス『バルテュス、自身を語る』(河出書房新社、2011)を買った。そのあと四階に行って万年筆のコーナーでウォーターマンのブルーブラックのボトルのインクを買う。

歩きながら自分の心の中のことをいろいろ考えていたのだけど、特に理性と感性それから心の関係の問題が自分の中ですごく大きな問題なんだなと思った。交流分析では心の働きをチャイルドとペアレンツとアダルトに分けて考えるが、自分の中で理性はチャイルドに対し教導的・抑圧的に働くペアレンツに、心や感性は自由を求め、好きなものを求め、好きなことしかしたくないチャイルドに当たる。結構自分の中でこの二者の働きは不幸な関係になっている感じがあって、理性は理性でとても抑圧性が強く、またチャイルドはそれを嫌って逃げ回っていて、お互いに親離れ子離れが出来ていない。それを調停するアダルトの働きは自分は結構強い方だとは思うのだけど、そのアダルトは自分の中に向かわず社会に対する関心として働いていて、自分の中に対しては比較的無関心だったりする。

その関係にはいろいろなことがあるのだけど、「好き」とか「嫌い」とかのことで言えば、私の理性はやはり趣味的に野暮というか、教養として知っているものや自分が身の回りにおいてきたものでもろくなものがないという思いがある。量販的なものも平気で使っていたし、またその守備範囲を広げようと思ってもブランド的なものとか人がいいと勧めるものとかが基準になってしまう。まあ当然理性というものはそういうもので、だから頭でっかちの人の趣味というのは基本的に面白みがない。

だから、理性そのものもそういうものでは満足していなくて、感性でいいものを見つけたいと思っているしそれを奨励もしている。田舎にいるときはなかなかそういう感性が震えるようなことは起こらなくて、東京にいるときのほうが刺激されるので、感性は東京にいることを求めているのだけど、仕事は田舎でしているのでそれも難しい。

まあこうして、感性と理性の相克というかゲームのようなことを描いているのはアダルトのの働きと行っていいのだろう。というか、ものを核というのはもともとそういうアダルト的な働きの現われなんだろう。私が小説を書くと基本構造が大体似かよっているのだけど、自己であるチャイルドに対し、最初の他者としてのペアレンツがいろいろ干渉ないし攻撃してくる。そういうペアレンツは何も人格を持つものだけではなく、たとえば災害であったり困難な状況であったりする。だからこそそれは結局チャイルドを育てるための天の配剤であった、というような展開になるストーリーに、私が考えるとなる。

だから一人称として現れるのはチャイルドでペアレンツは二人称または三人称として現れるわけだけど、ペアレンツとの対決は基本的に一番クライマックスになるのでそれまでの物語を転回させるパートナーのようなものとしてアダルトが現れることが多く、話し相手、二人称的なものとしてそういう存在がでてくる。という構造になることが多い。

しかし考えてみたら物語というのはそういうものだけではない。どうも私の小説は世界観が薄いなと感じることが多いのはそういう基本的な枠組から逃れられないというところがあるからだなと思った。たとえば能だったら語り手であるワキが現れて状況を説明し、そこに描かれるべき主人公シテが仮の姿前シテで現れ、昔のことを語る。語っているうちに二人は悪場所に――そう言っていいかどうか――に引き込まれ、主人公はその本性を現わし、後シテとなって本性を思う存分表現し踊る、という構造になっている。ここでは一人称が前シテ、ワキがその話し相手である二人称になって、自分も知らない、あるいは自分でも制御できない本当の姿である三人称の後シテとなり、舞い踊ることによって昇華して闇に、あるいは光の中に消えていく、というような構造になっているといっていいのではないか。だから能というのは、私が見るからかもしれないが、「私」の本当の姿を暴き、昇華する演劇のように思われる。まあこの見方は近代主義的すぎるかな。

でも闇というのは常に心の闇と通じているわけで、自分の中に自分の知らない何かがあるからこそ人は闇が怖いのだと思う。

まあそんなふうに考えてみると、このペアレンツとアダルトの関係というのはすべての物語の基本構造に関係してくるのかもしれないなと思った。

いまふと頭に思い浮かんだが、『嵐が丘』なんかも能に構造が似ているな。描かれるべきシテがヒースクリフとキャサリンの二人がいて、基本的にはヒースクリフがシテだと思うけど、キャサリンはツレというには大きすぎる。語り手の名前は忘れたが青年がワキということになるだろう。亡霊の話だし、『嵐が丘』ってお能になるんじゃないだろうか。18世紀イギリスの衣裳とか着てやると面白いかも。

まあペアレンツもチャイルドも、そしてアダルトも思う存分活躍するような調整の仕方をすればいいんだよな。なんかすっきりして来た。

***

丸善を出たあと、新丸ビルに行って成城石井でザワークラウトとレバーペースト、リッタースポーツのチョコレートにメキシコ産の蜂蜜を買う。レバーペーストはいつも買っている豚のものがなかったのでアヲハタのチキンのものを買った。特筆しておきたいのはメキシコ産の蜂蜜。オレンジの花畑で取ったものだというが、これは美味しかった。

帰宅後、テレビでSMAPのでている「はやぶさ」の特集を見た。これはなかなか面白かった。いままでいろいろ断片的に聞いてはいたけど、開発段階での500点満点の発想とか、イトカワへの再着陸の試みとか、大気圏突入前に最後に地球の写真を撮らせたエピソードとか、日本の技術というものがどういうメンタリティに支えられて発達してきたのかということが分かってとても印象深かった。同じ多額の国家予算をつぎ込んだ科学技術の巨大システムなのに、どうしてロケットはこれほど明るく、原発はこんなことになっているのか。エネルギー問題は、人間が近代生活を送るうえで避けて通れない問題だが、それだけに人間の業のようなものが集中的に現れる問題だからなのかもしれない。

原発はもとより事故が起こった場合の巨大な放射能リスクがあるし、火力発電所は大量の化石燃料の使用の問題、水力発電所はダムによる自然破壊の問題が伴う。結局どのような形であれ、エネルギー問題は自然への搾取という問題を避けて通れないわけで、そういう意味では古代から森を破壊してきた幾多の文明と同じ病巣を持っていて、それが規模が大きいだけに巨大な業としてたち現れて来ているといえるのだろう。ロケットも発射のときは莫大なエネルギーを使うが、宇宙での推進力ははやぶさの場合イオン交換による微少なエネルギーで済むわけで、そのあたりもなんとなく明るい原因なのかもしれない。

早めに寝る。朝は5時台に起き、自分の体調や精神状態の不調の解決法として『歩く』というのがあるなと思い立って、久しぶりに荒川土手まで散歩に行くことにした。肩に力が入るというのは結局腰と腹に力が入っていないことだなと思い、足腰を鍛えるためにはまずは歩くということだろうと思う。昨日も活元運動をしたり、それ以前にただ長時間正座したりしていたのだけど、それでも腹に力が入る感じがあった。デューク更家の本を引っ張り出して仙骨立てエクササイズなどいろいろやって歩き方を確認し、歩き出す。ブログで確認してみると、最後に荒川まで歩いたのは2009年の8月24日。一年半以上さぼっていたことになる。その前は同じ年の4月20日。うーん、本当にさぼっているなと思う。

歩き出すとわりとすぐ調子が出て歩いていて気持ちがいい。手袋をしてこなかったことと首周りが少し寒い感じはしたが、起きたときに気になった足首とかも特に気にならず、順調に歩いて、富賀岡八幡宮にお参りし、荒川の堤防を越えて河川敷に出た。残念ながら工事中で革のそばまではいけなかったが、堤防自体が新しくなっていて驚いた。

まだまだ自分の中のいろいろなことが解決しているとか自分の中と外が思うような動き方をしているとはいえないけれども、だいぶ自分の中の見晴らしがよくなってきたような気がする。頑張っていこう。

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